1900年ごろの三石郡
1900年ごろの三石郡 みついしぐん
地理
西側と北側は、それぞれ布辻川(ぶしがわ)と、シヤマツキイワ~モタウシ山脈によって、隣り合う静内郡と隔てられている。郡の東部は標高の低い山々や丘陵を境に、浦河郡と接している。南側は海に面している。三石郡は、東西の長さが6里7町(24.3km)、南北が6里18町(25.5km)、面積23方里(354.7km2)の小さな郡である。郡の北部は高山帯で、セタウシ岳、ペトウトルヌプリなどの山々がそびえ、最高点の標高は3200尺(970.0m)あまり。南側は高度が下がって丘陵地形が続く。
セタウシ岳から出発する三石川(みついしがわ)は、途中、パンペツ(川)を合流させながら、郡の西部を南に向かって流れ、海に注いでいる。いっぽう、鳧舞川(けりまいがわ)は、セタウシ岳の東側から流れてきて、三石郡の東部を南に流れて、海に到達する。これらの2本の川の下流域には、いずれも川沿いに細長い原野が発達している。三石川沿岸原野は長さが2里(7.9km)あまり、鳧舞川沿岸原野は長さ4里(15.7km)弱だが、どちらも土は痩せている。布辻川沿いにも小規模な原野がみられ、隣接する静内郡遠別村にまで広がる形で、小さな原野を形成している。
三石郡の海岸線は3里21町(14.1km)で、砂浜が続くが、各河川の河口のそばには丘陵地形が見られる。郡西部の沿岸では海面に岩礁が顔を出し、海藻を育んでいる。
植生を見ると、丘陵部はカシワとナラが最も多く、標高が高くなるにつれ、広葉樹と針葉樹が混じり合うようになる。
気象は静内郡と似ている。積雪量は原野地帯で1尺(30cm)から1尺5寸(45cm)ほど。
姨布(おばふ)は、「港湾」と呼ぶことはできないが、小型の汽船が岸から比較的近い場所に錨を下ろして停泊できる。また、鳧舞村(けりまいむら)シリエトの沖にも船がやってきて、郡の貨物はこの2カ所を経由して輸出入されている。海岸に沿って国道が通じているが、砂浜なので、クルマ(人力車・馬車など)の通行には向いていない。鳧舞川と三石川に、それぞれ川沿いの里道の建設が進んでいるけれど、未完成である。布辻川沿岸に行こうと思っても、静内郡遠別村を迂回する必要があり、非常に不便である。
三石郡は6つの村からなっている。西部海岸に姨布村(おばふむら)、東部の海岸に鳧舞村(けりまいむら)がある。邊訪村(へぼうむら)と幌毛村(ほろけむら)は三石川沿いに並んでいる。本桐村(ほんきりむら)と歌笛村(うたふえむら)は鳧舞川の流域に並んでいる。
沿革
松前藩が支配していた当時は、藩士・杉村多内氏の「給地」だった。寛政(1789~1800年)のはじめごろ、商人・阿部屋伝吉氏が場所請負人となり、1年間に昆布1万4500駄※を生産して「三石昆布(みついしこんぶ)」と名付けて出荷したことから、このブランド名が広く知られるようになった。1813(文化10)年には松坂屋六右衛門氏が、また1819(文政2)年には栖原屋虎五郎が場所請負人になった。栖原屋は後に屋号を変更し、小林姓を名乗った。1869(明治2)年に場所請負制は廃止されたが、(場所請負人だった)小林重吉氏がそのまま「漁場持ち」に指名された。1876(明治9)年の漁場持ち廃止後も、イワシ・サケなどの漁場は小林重吉氏が貸付を受けたため、三石郡内に新しい漁場を開設する余地はほとんどなかったが、昆布採取を目的に移住者が増え、小林氏が刻み昆布製造工場を建てるなどしたおかげで、郡内の経済はやや上向いた。
1880(明治13)年、戸長役場を設置。
1885(明治18)年~1886(明治19)年以降は、淡路国(兵庫県淡路島)出身者などの農業者が移入するようになり、近年は越前国(福井県)出身者の移住が増えて、開拓が進んでいる。1897(明治30)年現在の郡内人口は539戸、2118人である。
※〈『丸善単位の辞典』『日本大百科全書』「駄(だ)」の項目によると、 馬一頭に背負わされる荷物の重量からできた単位で江戸時代の定めでは三十六貫(135kg)。酒は三斗五升入り(約63L)2樽を一駄、1樽分を片馬、醤油は八升入り8樽を一駄と言った。〉(レファレンス協同データベース 2022/12/28閲覧)
重要産物
1897(明治30)年の郡内の水産実績は以下の通り。
イワシ搾り粕 | 692石 | 124.8m3 |
---|---|---|
カレイ絞り粕 | 1250石 | 225.5m3 |
塩サケ | 908石 | 163.8m3 |
塩マス | 47石 | 8.5m3 |
棒ダラ | 95石 | 17.1m3 |
塩タラ | 148石 | 26.7m3 |
干しカスベ | 30石 | 5.4m3 |
サケ筋子 | 382貫 | 1432.5kg |
イワシ油 | 99石 | 17859.6リットル |
長切り昆布 | 1068石 | 192.7m3 |
ギンナンソウ | 2448貫 | 9180kg |
合計価格 | 46,030円 |
また、農産物の生産量は
大豆 | 2457石 | 443.2m3 |
---|---|---|
小豆 | 3072石 | 554.2m3 |
である。今後の増産が予想されている。
概況
姨布村では漁業・農業・商業に携わる住民からなり、姨布地区にはちょっとした市街地が形成されている。戸長役場、警察分署、郵便局などがここに置かれ、三石郡の中心地である。鳧舞村は農業者が多く、漁業者と商業者は少ない。その他の村々は純然たる農村である。
1897(明治30)年現在の保有船舶数、網数
イワシ建網 | 4カ統 |
---|---|
イワシ曳き網 | 3カ統 |
サケ建網 | 5カ統 |
サケ曳き網 | 4カ統 |
サケ旋網 | 1カ統 |
マス建網 | 4カ統 |
タラ/カスベ漁の川崎船 | 26艘 |
カレイ漁の川崎船 | 25艘 |
持符舟 | 2艘 |
昆布採取船 | 136艘 |
旧場所の請負人だった小林重吉氏が、郡内のイワシ漁場・サケ漁場・マス漁場の70%を所有していたが、1896(明治29)年、負債を返済するために所有漁場を三井物産会社に売却・譲渡した。現在は同社がこれらの漁場を経営している。
いっぽう、タラ・カスベ・カレイ漁業は越後国(新潟県)や越中国(富山県)からの入り稼ぎ者が担っている。三石郡在住の資本家数人が彼らに「仕込み」をして、漁獲物の売上の5%を「手数料」と称して徴収している。 昆布漁は、採取船の数の多い割には、収穫量はそれほどでもない。昆布採取船は1人乗りである。かつて昆布干場所有者の過半数をアイヌが占めていたが、現在はほとんどの干場が和人の手に渡っている。
明治30年現在、すでに開墾の終わった面積は合わせて1024町9反歩(1016.4ha)である。このうち51%には大豆、35%に小豆が作付けされている。そのほかバレイショ、ハダカキビ、ソバキビ、トウモロコシといった自家の食料とするための作物が植えられている。各農家は資金が充分にあるとは言えず、姨布村・浦河村・鳧舞村の商家から仕込みを受けている。1898(明治31)年は、洪水の被害こそ免れたものの、大豆・小豆が不作で、どの農家も借金を返済できず、1戸あたり数十円の負債を抱えてしまった。
三石郡全体で865頭の馬が飼養されている。ほとんどは農家の所有である。このほか、牛の牧場が2カ所ある。沙流郡から牛を運んできて飼育している。
邊訪村(へぼうむら)、幌毛村(ほろけむら)、歌笛村(うたふえむら)では、それぞれアイヌが集落を形成している。幌毛村のアイヌのうちの数人は熱心に農業に従事している。それ以外のアイヌたちは農業・漁業のかけもちで、技術を覚えようとせず、非常に貧困である。
全郡合同の戸長役場が姨布村にある。各村の公共事業は郡内全体を合算する形で会計処理が行なわれている。学校は姨布・延出(のぶしゅつ)・本桐・歌笛に計4校が置かれている。
1900年ごろの姨布村 おばふむら
地理
西側は静内郡(しずないぐん)春立村(はるたちむら)、音江村(おとえむら)、遠別村(とおべつむら)に隣接し、また北方は邊訪村(へぼうむら)と隣り合っている。東方は鳧舞村(けりまいむら)につながり、南側は海に面している。
邊訪村方面から流れてくる三石川(みついしがわ)は、河口では幅20間(36.4m)ほどになる。村の西側の境界線は布辻川(ぶしがわ)と重なる。また村の真ん中を姨布川(おばふがわ)が流れている。 村全体が丘陵地形をしていて、平地が見られるのは三石川沿いと布辻川沿いだけ。海岸線は2里半(9.8km)の長さがあり、砂浜が続いているが、海中には岩礁がたくさん隠れている。
樹種のうち、もっとも多く見られるのはカシワである。ハンノキ、ナラ、ニレなども多い。
運輸交通
姨布湾は、規模はとても小さいが、小さな汽船なら岸の近くに錨を降ろして停泊することが可能である。1897(明治30)年の入港実績は、145隻だった。函館との間の物資輸送には支障がない。函館ー姨布間の船賃は、輸入部門で米100石(18m3)あたり35円、大山酒1樽あたり16銭、輸出部門では水産物100石(18m3)あたり45円、大豆・小豆も同じく100石(18m3)あたり45円である。
陸路は、苫小牧停車場まで25里(98.2km)、浦河まで5里16町(21.4km)の距離。村に郵便局はあるが、電信局がまだないので、通信連絡は非常に不便である。
沿革
姨布村には、かつて三石場所の会所が置かれ、ホテル、倉庫、神社、うまやなどが集まっていて、文久(1861-1863年)・慶応(1865-1868年)ごろから数世帯が定住するようになっていた。1876(明治9)年、小林重吉氏が学校を建てた。小林氏は1877(明治10)年、中国向けの刻み昆布製造工場を建て、従業員として数十人を雇用した。後年、この工場は函館に移転したが、この間に漁民や農民たちが姨布村に移住してきて、戸長役場や警察分署などが置かれるようになり、村は年々発展している。
戸口
1897(明治30)年末現在の村内人口は、125戸、818人である。青森県・岩手県・広島県をはじめ、(本州以南の)いろいろな県からの出身者たちが混じり合って生活している。
部落
姨布(おばふ)地区は、単に「三石(みついし)」とも呼ばれる。姨布川の東側に約60世帯からなる小さな市街地が形成されている。戸長役場、警察分署、医院、小学校、神社と寺、三井物産会社漁業支部[ 三井物産会社漁業支部]、三石郡漁業組合事務所が経ち、商店、ホテルなどもある。三石郡の中心地である。
布辻川の東側に農家が20世帯、またニノコシ地区に漁家5世帯、シヨツブ地区の高台に農家10世帯、ペセハツケ地区に農家と漁家合わせて10世帯、ヲラリ地区に漁家6世帯が暮らしている。
漁業
1897(明治30)年現在の漁場の状況は次の通り。
イワシ建網 | 1カ統 |
---|---|
マス建網 | 4カ統 |
サケ建網 | 6カ統 |
タラ/カスベ漁の川崎船 | 21艘 |
カレイ漁の川崎船 | 21艘 |
昆布採取船 | 130艘 |
三石郡内の水産物はほとんどが姨布村から輸出されている。
農業
布辻川の両岸に、原条氏・武田氏の所有する肥沃な土地があり、小作者17世帯が耕作している。大豆と小豆を中心に作付が行なわれ、水田も作られている。ペセハツケ地区は地味がやや劣り、小林氏の所有地で小作者数世帯が耕作している。シヨツブ高台は土壌はやせているものの、姨布市街地に近く、交通の便はよい。全村あわせて170頭あまりの馬が飼養され、馬主の数は35人である。このうち3人は10~40頭ずつを所有している。
製造業
バレイショを原料とする澱粉工場が2カ所、醸造所が1カ所、鍛冶屋が1カ所ある。鍛冶屋を経営する澤谷吉松氏は9年前からプラオの製作を始め、少しずつ技術が向上して、近年は年間80~90台を生産するようになっている。札幌製のプラオに比べると重いが、堅牢さでは勝る。価格は新規開墾向けの2頭引きタイプで50円、再開墾向けタイプが16円(付属品をすべてセットした価格)。三石郡内を中心に、浦河郡・静内郡、また十勝方面でも販売されている。
商業
入植が始まった当初は、小林重吉氏の経営する商店のほかは、酒店・菓子店くらいしかなかった。1886(明治19)年を過ぎると商店が増え始め、現在では着物を扱う呉服店、米穀店、荒物店など5店が営業している。これら商店の商圏は三石郡内全域におよび、函館からの商品のほか、最近では東京からの着物を輸入販売する業者もいる。1897(明治30)年の三石湾からの輸出総額は7万8000円あまりで、うちわけは農産物と水産物がちょうど半分ずつだった。輸入総額は3万9000円弱で、その50%以上をコメが占めた。金融は例年、農家が収穫期を迎える秋に活性化し、4月・5月に低迷する。ローンは月利2~3%である。
木材・薪炭
幌毛村産トドマツの現在の販売価格は170円/100石。薪炭材は開墾地から供給され、、薪が1円~1円20銭/1敷、木炭は25銭/1俵(10貫匁=37.5kg)。
地価
姨布村市街地は、1年間の賃借料は5~10銭/坪。ただし、半分以上が三井物産会社の所有地で、現在は売買の例がないので、正確な地価は不明である。農地は3~10円/坪で売買されている。
風俗・人情・生計
姨布村は商業と漁業に支えられ、住民たちの衣食住もそれなりに向上してきた。ただし農家は大半が茅葺きの家で質素に暮らしている。負債も抱えているが、生活困窮者はいない。世情は穏やかである。
教育
1878(明治11)年、小林重吉氏が私費で教師を招聘して教室を開き、生徒たちを通わせようとしたが、短い期間で閉校してしまった。1889(明治22)年、公立の三石尋常小学校が開校。現在の生徒数は60人である。
衛生
1878(明治11)年、札幌病院傘下の三石病院が開設された。同病院閉鎖後に村医が配置された。
社寺
村内に稲荷神社が2カ所ある。ひとつは1806(文化3)年に建立された郷社、もうひとつは1836(天保7)年建立のもので、後者が村社である。また1894(明治27)年に建てられた照法寺がある。
1900年ごろの邊訪村 へぼうむら
地理
南側は姨布村に、北方は幌毛村に隣接している。東側と西側はいずれも丘陵地帯で、村の中央を貫いて三石川が流れている。支流のキムウシピパウ川とピシュウンピパウ川が邊訪村で三石川に合流している。「邊訪(へぼう)」という村の名前は、アイヌ語の「ピパウ」にちなんだもの。ピパウは「貝」を意味し、これらの川の名称にも使われている。
三石川の両岸には平坦な土地がみられる。平地は上流部と下流部とに分かれていて、下流部が狭いのに対し、上流部の土地は広い。上流部の平地を、アイヌは「カムイコタン」、和人は「蓬莱岩」と、それぞれ名前をつけて呼んでいる。邊訪村から姨布村に続く里道がついているが、途中で丘陵部を越えなければならず、馬車での行き来はできない。
沿革
昔からアイヌの部落があった。開拓使設置(1869年)の前の時代には、場所請負人だった小林重吉氏が、出稼ぎにきていた漁業労働者たちの中から5人をつのってこの地に送り込み、開墾するように命じたが、3年間で撤退した。1885(明治18)年、政府(札幌県)がアイヌを対象に農業指導事業を実施し、牛を導入して草原を開墾した。
また徳島県出身の高岡精一郎氏ほか4人の入植開墾申請を受けて土地を割り渡し、高岡氏たちを定住させようとした。しかし一部は村を離れて、現在まで残っているのは高岡氏ともう一人の計2人だけである。
1888(明治21)年~1889(明治22)年ごろから、淡路島出身の農民たちが入植してきて、農村が形成されている。
戸口
1897(明治30)年末現在の村内人口は、79世帯、378人である。淡路島出身者が最も多く、次に岩手県出身者が多い。アイヌは20世帯である。
農業
新たな移民を除いて、たいていの農家がプラオと馬を所有して、1世帯あたり5町歩(5.0ha)以上の土地で耕作している。自作地面積に比べ、小作地面積は2倍近く大きい。1反(10a)あたりの小作料は小豆2~8斗(36.1~144.3リットル)である。
出荷用作物の生産量は小豆、大豆の順に多い。イネ、キビ、ハダカキビ、ソバ、ヒエ、トウモロコシなどの自家用作物のほか、コメ、藍(アイ)、アブラナなどを試験的に栽培している人もいる。
アイヌは農業をなまけて、1世帯あたりわずか数反(1反は10a)ずつしか耕作していない。
邊訪村全体で132頭の馬が飼養されている。所有者は44人である。
製造業
澱粉を製造している人が一人いる。1897(明治30)年に製造を始め、この年は2700斤(1620kg)を生産した。同じように澱粉製造を計画している人が他にもいる。
生計
和人たちは全世帯が農業に従事しているが、裕福になった人はまだいない。アイヌは多くが漁場に出稼ぎに行っており、その合間に副業的に農作業をしている感じで、貧困である。
1900年ごろの幌毛村 ほろけむら
地理
幌毛村は、邊訪村(へぼうむら)の北側に位置し、三石川の上流域を擁している。村の南側には、川の両岸に長さ1里(3.9km)あまりにわたって平らな低地がみられ、土壌は肥えている。その北側にはシツキカルペヌプリやオプカルシヌプリなど、標高1000尺(303m)を超える山々が並び、そのさらに先は三石川の水源まで、数里(8~12km)にわたって山岳地帯が続いている。広葉樹・針葉樹ともに豊富である。幌毛村から邊訪村を経由して姨布村(おばふむら)に着くまでの距離は2里18町(9.8km)。
沿革
幌毛村と延出村(のぶしゅつむら)には、昔からアイヌが住んでいた。1882(明治15)年、2つの村を合併して幌毛村と名付けた。和人が移住してくるのは、1886(明治19)年以降である。現在も開墾事業が続いている。
戸口
1897(明治30)年末現在の村内の世帯数は92戸、人口は439人である。このうちアイヌは39世帯、221人である。和人には、淡路島出身者や南部(岩手県)出身者が多い。
農業
ほとんどの和人世帯が農耕馬とプラオを所有して、それぞれ5町歩(5ha)より広い面積の耕作にあたっている。自作地と小作地を比べると、小作地が少し多い。これらの農家は大豆と小豆を生産・出荷している。
ほとんどのアイヌは農業に熱心ではなく、政府がアイヌに給与した土地も、多くは和人が耕作している。そんな中にあって、幌村喜六・幌村保無久里・幌村良牟解遠久の各氏は、それぞれ5〜6町歩(5〜6ha)を耕作しているうえ、ほかの人びとから依頼を受けて「雇耕」もこなし、少しも和人に劣っていない。
邊訪村に比べると、幌毛村の耕地は開墾から年数が経っていないので、土壌の養分はまだ失われておらず、収量は邊訪村に勝っている。
木材と薪炭
幌毛村に設定した官林は、トドマツが豊富で、姨布村在住者が用材として払い下げを受けている。幌毛村の村民には、そのための冬期の伐採作業に従事している人が少なくない。
また、入植者の中には、自分の貸付地で樹木を伐採・加工して、薪や木炭を出荷している人がいる。
教育
邊訪村と共同運営するかたちで、1895(明治28)年に延出尋常小学校が創立された。生徒数は尋常科31人、補習科6人。
生計
邊訪村に比べると、和人もアイヌも、生計は少し楽である。
1900年ごろの鳧舞村 けりまいむら
地理
西方はポンフモッペ(山)を挟んで姨布村(おばふむら)に隣接している。東方はポンオニウシ(山)によって浦河郡荻伏村と隔てられる。南側は海に面している。本桐村(ほんきりむら)から流れてきた鳧舞川は、鳧舞村で南東方向に向きを変え、ワッカウンペ川と合流して海に注いでいる。沿岸部の平地は広大だが、大部分は泥炭性湿原で、ヨシ類が密生している。原野の東西には丘陵が発達している。
運輸・交通
砂地の海岸に沿って国道が通っている。鳧舞村シリエトから姨布村までの距離は、およそ1里(3.9km)。函館との間で不定期の汽船が物資を輸送している。
沿革
かつてシリエトには漁業のための建物が、また鳧舞川の岸辺に休憩所が設けられていた。開拓使時代の初期には、1〜2世帯が土着していた。その後、昆布漁を目的に数世帯が移住してきた。1884(明治17)年、明治18(1885)年ごろからは農業移住者が現れ、近年、その数が増えている。
戸口
1897(明治30)年末現在の人口は、54世帯・143人である。漁業者には岩手県出身者が多く、農業者には淡路島や福井県からの移住者が多い。アイヌは12世帯だけである。
部落
シリエトの東海岸に15世帯が固まって暮らしている。商店やホテルなどがある。また鳧舞川沿いに7世帯の集落がある。そのほかの村民は、入植先の原野に散らばって住んでいる。
漁業
1897(明治30)年現在の漁業概況は以下の通り。
イワシ建網 | 1カ統 |
イワシ曳き網 | 1カ統 |
マス建網 | 1カ統 |
サケ建網 | 1カ統 |
サケ曳き網 | 1カ統 |
タラ/カスベ漁の川崎船 | 1艘 |
カレイ漁の川崎船 | 4艘 |
カレイ漁の持符船 | 2艘 |
昆布採取船 | 15艘 |
シリエト近辺を除いて、ほかのエリアは海底が砂地で、漁獲は乏しい。
農業
農業従事者はおよそ30世帯である。主産物は小豆。漁民たちも全員が小規模に耕作を行なっている。泥炭性湿地エリアの土壌は痩せていて、現在、ようやく開墾が始まったばかりである。
牧畜
沙流郡在住の工藤氏が、ワッカウエンペに82万坪(271.1ha)あまりの土地の有償貸付を受け、牛98頭を放牧している。ほとんどが短角牛の雑種で、1年間を通じて屋外で放し飼いになっていて、最近は経営も芳しくない。1897(明治30)年の販売実績は2歳・3歳を合わせて約30頭、価格は平均80円/頭だったという。
このほか、村には牛5頭の飼育者が一人いる。馬を持っている人はわずかしかいない。
商業
シリエトに赤心社の支店と、村田氏経営の商店があり、米穀類、金物、木綿衣料などを扱っている。これら商店の扱い高の70%は農民・漁民たちの「仕込み」が占めているという。主な商圏は、鳧舞川に沿って並ぶ3つの村(本桐村・歌笛村・鳧舞村)である。村田商店は酒造業も営んでいる。このほか、酒や菓子を扱う商店が村内に数軒ある。
衛生
医師が一人、開業している。間歇熱の小規模な流行があった。
1900年ごろの本桐村 ほんきりむら
地理
本桐村は、鳧舞村(けりまいむら)と歌笛村(うたふえむら)の間に位置している。村の東部と西部には丘陵地形がみられる。村を南北に貫いて鳧舞川が流れており、その鳧舞川沿いに平坦な地形がみられる。川の西岸は土が肥えているが、東岸は湿原が多い。かつて本桐といえば、鳧舞川の河口からおよそ3里(11.8km)をさかのぼった地点から上流の地域を指していたが、現在の村域は、この地点から下流のエリアも含む。
姨布村からの距離は3里(11.8km)。川の西岸に修復済みの田舎道が通っている。
沿革
ポンキリに以前からアイヌが居住していたため、このエリアが一つの村とされた。1887(明治20)年に大塚助吉氏ら淡路島出身者が農民として移住してきた。その後、移住者数は年ごとに増えている。
戸口
明治30年末現在の人口は、89世帯・273人である。ほとんどが川の西岸に散らばって、耕作をしながら暮らしている。
農業
村内の農地の60%が小作地である。最初に入植した大塚助吉氏が、開墾を済ませた農地約200町歩(200ha)を所有して、村中で一番の農家と呼ばれている。他の人たちは1世帯あたりだいたい5〜6町歩(5〜6ha)を耕作している。出荷作物は小豆と大豆。また自家消費用にハダカムギ、バレイショ、ソバムギなどを栽培している。
小作者は、新規開墾の場合は、鍬下期間3年の猶予を与えられるだけで、現金や食料・農具などの支給はない。小作料は、1反(10a)あたり小豆1〜2斗(18〜36リットル)。
牧畜
大塚助吉氏ともう一人が共同経営するポンキリ牧場がある。面積は27万6000坪(91.2ha)あまりで、馬40頭あまりが放牧されている。
また、下下方村(しもげぼうむら)在住の八田満次郎氏とほかの二人が、共同で有償貸付を受けた土地にシムロ牧場を開設している。こちらの面積は約38万坪(125.6ha)。沙流郡(さるぐん)貫気別村(ぬきべつむら)の牧場から、冬の間だけこのシムロ牧場に牛を移送してきて放牧している。
このほか、本桐村全体で140頭あまりの馬が飼養されている。すべて農耕馬である。
風俗・人情および生計
郡内のほかの農村と大きな違いはない。本桐村の淡路島主審者と、歌笛村の福井県出身者を比較すると、淡路島出身者たちはふだんは少しけちんぼうなのに、祭日や休日にはぜいたくに飲んだり食べたりする、と噂されている。
教育
鳧舞村と共同で本桐尋常小学校補習科が設けられている。現在の生徒数は42人。うち女子生徒は8人しかいない。
寺
1898(明治31)年創立の寺がひとつある。
1900年ごろの歌笛村 うたふえむら
地理
歌笛村は、本桐村(ほんきりむら)の北方に位置し、鳧舞川(けりまいがわ)の上流域にあたる。北側の村界あたりから流れ出してくる鳧舞川は、はじめ南向きに流れてから、西に折れ曲がって本桐村に流れ込んでいる。川岸には広い平坦地が形成されており、左岸は樹林帯、右岸にはヨシ原の発達した湿原が多い。川に近い場所には、アカダモ・ヤチダモ・カツラ・ハンノキ・クルミなどの樹種が見られる。また山地にはナラ・アカダモ・トドマツなどが生えている。
鳧舞村まで3里(11.8km)、姨布村まで4里(15.7km)、浦河まで6里(23.6km)、それぞれ離れている。物資はもっぱら馬の背に乗せて運ばれている。
沿革
古くからアイヌの集落があった。1891(明治24)年、渡島国(おしまのくに)知内村(しりうちむら)在住の福井県出身者たち数世帯が、歌笛村に移住してきた。1893(明治26)年以降、移入者の数は年ごとに増えていて、とりわけ1896(明治29)年、歌笛村内の官林200万坪(661.2ha)が解除される(民間への払い下げの対象地になること)と、さらに数十世帯が移住してきた。
戸口
1897(明治30)年末現在の人口は、100世帯・467人である。今年(明治31年)、さらに20〜30戸が新たに入植した。
和人のうち90%は福井県出身者である。アイヌは23世帯である。アイヌたちの世帯はやや固まって集落を形成しているが、和人たちは世帯ごとに散らばって暮らしている。
農業
鳧舞川の北岸に「アイヌ給与地」が設定されているが、その土地は痩せている。福井県出身者たちが最初に入植したのは鳧舞川の南岸だった。こちらは湿地が多く、土壌もやや痩せていたが、開墾は容易だったので、たいていはうまく農地化が進んだ。
1896(明治29)年に政府が「解除」した従来の官林エリアは、その奥(?)に設定されていて、その大半が樹林帯だったため、開墾は困難な状況である。ふつうの湿原環境の開墾だと、「ヤチボーズ(谷地坊主=スゲ類などの湿地性植物が枯れた後も分解されないまま繊維がからまりあって地表に形成される大小の隆起物)」を除去するのに1反歩(10a)あたり3人の労力が必要だとされるが、樹林環境では、場所によって木々の育ち具合が異なるので、農地として整えるのに必要な労力を見積もるのも困難である。
数年前に移住してきた人たちは1世帯あたり6町歩(6ha)を耕作している。
種別では、自作地に比べて小作地のほうが少し多い。小作料は、一般的な場合で面積1反(10a)あたり1円〜1円20銭である。
アイヌたちは農業を怠けていて、2世帯がそれぞれ3町歩(3ha)ずつを耕作しているのを除くと、他の人たちの耕作面積は1世帯あたり5〜6反(50〜60a)にとどまっている。
地価は、いずれも開墾前の状態で、樹林地は1反(10a)あたり3円、湿地は2円である。開墾済みの土地はそれぞれ7〜8円である。
農作業の労賃は非常に低い。淡路島出身者の多い本桐村では年間賃金が40〜50円なのに対し、福井県出身者が多い歌笛村では25〜30円にとどまっている。
牧畜
馬を所有している村民は50%以下にとどまり、馬の数は合わせても200頭にとどかない。村東部の丘陵に共同牧場の用地として50万坪(165.3ha)あまりの「有償貸付地」が用意され、現在、牧柵設置工事が始まっている。
風俗・人情・生計
この村は、ほとんど純然たる「越前村落」(福井県出身者たちの村)といってもよい。全員が専業農家だが、まだ財産には乏しいので、浦河方面や鳧舞村の商店から「仕込み」を受けざるを得ない段階である。人びとはおたがいに競い合うように仕事に励んでいるが、同じ出身地の者同士が集まっている村にしては、団結力が少し弱い感じもある。
アイヌたちは農業と漁場への出稼ぎによって生計を立てているが、非常に貧困である。
教育
1898(明治31)年に学校が新築された。教員が採用されたらすぐに開校予定である。