HOME > 先住権の地図

更新日 2023/05/16

1899年の様似郡

kimpetatuy北海道廳殖民部『北海道殖民状況報文 日高國』(1899)から、様似郡のパートを抜粋して、現代文に書きくだしてご紹介します。〈〉内は原文の引用(漢字は常用漢字に置き換えている場合があります)、()内は難読漢字のよみ、現代語訳者の補足、説明など。コラム記事は現代語訳者のコメントです。この現代語訳作業は進行中のプロジェクトであり、誤訳・誤字・脱字のあることをご了承ください。発見次第、お知らせなしに修正しています。(平田剛士)

1899年の様似郡 さまにぐん

地理

北西部は、ウトムアンペツ川を境界にして、浦河郡と接している。北部は日高山脈を挟んで十勝国(とかちのくに)広尾郡(ひろおぐん)に続いている。南東部はニカンベツ川に区切られて幌泉郡(ほろいずみぐん)に、また西側は海に面している。郡の大きさは東西に7里24町(30.1 km)、南北に5里18町(21.6km)、面積は23方里(354.7km2)あまり。北から南に向けて広くなる形をして、海岸線の長さは6里6町(24.2km)である。

様似郡の中央部にはピンネシリ山が、また南部にはオロクンネヌプリ、東部にはライキウンヌプリ山、ペヌシリウトゥル山がそれぞれそびえている。ピロロヌプリ山は十勝国との境界をなす山脈のうちの一峰である。

浦河郡・様似郡の郡境界の山脈から流れてくる様似川は、様似郡岡田村(おかだむら)と二七村(にななむら)の間を流れて、様似村で海に注いでいる。十勝国との国境に位置するピロロヌプリ山を源流とするポロシュマベツ川は、たくさんの小支流を集めながら幌満村(ほろまんむら)を流れて海に到達する。またニカンベツ川は、幌泉郡の山中から流れ出し、誓内村(ちかぶないむら)の東部を経由して海に入る。

郡内の地形は、日高山脈の支脈が縦横に走っているため、平坦地はごく少ない。とりわけピンネシリ山は(山頂の位置が)海岸からわずか2里(7.9km)ほどのところそびえ立っているし、オロクンネヌプリ山も海岸から1里(3.9km)ほどしか離れていない。これら2峰の余脈が郡東部の海岸まで伸びてきて、断崖絶壁の景観を生み出している。様似村のエンルム岬は海に突き出た形をしている。

ポロマンベツ川を3里(11.8km)ほどさかのぼると、四方を山脈に囲まれたわずかな平地があるが、海辺から遠くて交通手段がなく、土壌もあまり肥えていない。

河畔の低い場所には、アカダモ・ヤチダモ・ハンノキ・カツラなどの樹種が見られ、丘陵部の小高い場所にはナラ・カシワ・カエデ・カバなどが生えている。

冬嶋村(ぶよしまむら)の官林は日高国内でも良く知られる大森林で、ピンネシリ山を中心に平鵜村の海岸から幌満村まで広がっている。広葉樹も交じっているが、トドマツが一番多く、そこにエゾマツやゴヨウマツも生えて、非常に美しい林相である。

様似郡の気象は浦河郡とほとんど同じである。夏場は沿岸部が濃霧に覆われる日がある。霜が降りるのは10月上旬から翌5月下旬まで。積雪深は海岸部で5~6寸(15~18cm)、内陸では1尺5~6寸(45.5~48.5cm)ほどだという。

海に突出したエンルム岬を挟んで、弧を描く湾が東西2方向に形成されているので、船を着けるにはちょうどよい海岸地形なのだが、湾の規模が小さいうえ、水深が足りず、とくに西湾はあちこち岩礁が顔を出しているため、大型船は入港できない。一度に入港できるのは小型汽船2~3艘がやっとである。近年は船舶の出入りの頻度がだんだん増しており、冬嶋村でも時々、汽船・帆船が沖に停泊する形で、荷を積み降ろししている。

海岸沿いに国道が開通している。様似から浦河までは3里16町(13.5km)の距離。道はほとんど砂地で、幌別川は「渡津」できる。東方面は幌泉まで7里(27.5km)。途中、冬嶋村から幌満村までの区間は、海沿いの険しい絶壁を開削し、ところどころ隧道(トンネル)を開けて道をつけてあるが、大きな落石があちこち転がっていて、物流の大きな障害になっている。

様似郡は8つの村に区分されている。

鵜苫村(うとまむら)、様似村(さまにむら)、平鵜村(ぴらうとむら)、冬嶋村(ぶよしまむら)、幌満村(ほろまんむら)、誓内村(ちかぷないむら)の6村は、西から東に向かって海岸線に並んでいる。

岡田村(おかだむら)と二七村(にななむら)だけが内陸にあって、海に面していない。


沿革

かつては、隣り合う幌泉と一緒に「アブラコマ場所」と呼ばれ、松前藩時代は蠣崎蔵人氏の「給地」だった。1798(寛政10)年、幕府官僚の近藤守重氏が様似山道を開削し、1799(寛政11)年に幕府直轄に移行してから道路が開通して、初めて幌泉場所が置かれることになった。この時、(様似場所と)幌泉場所との境界は現在の冬嶋村ヨムケベツに設定されたが、1802(享和2)年、この場所の乙名(オッテナ=アイヌの代表者)の立ち会いのもと、(冬嶋から南東に約8km離れた)ニカンペツまでを様似場所とすることが決まった。というのも、新設の幌泉場所はアイヌ人口が少なく、今後、猿留(さるる)山道・様似山道の路面や橋の管理・補修のための労働力不足が目に見えていたので、様似山道沿線を様似場所に組み込むことにしたという。

また、様似場所と浦河場所の境界は長らく不明確のままで、常に紛糾が絶えなかったが、文化年間(1804~1817年)に両場所の乙名の立ち会いを求めて、最終的にウトムアンベツ(川)を境界に設定することが決まり、それ以降は現在まで変更されたことはない。1813(文化10)年、佐野伝左衛門氏が場所請負業者に決まり、代々の後継者が継続してこの場所を請け負っているのは、浦河場所と同じである。

1869(明治2)年、鹿児島藩の支配下に置かれた後、翌1870(明治3)年から開拓使が所轄し、函館物産係の出張所が設置された。この年、番人・出稼ぎ人など36戸が永住者として移住してきている。その後、杉浦喜七氏が(漁場持ちとして?)政府許可を得て漁業などの事業経営にあたった。その杉浦喜七氏は1875(明治8)年で罷免され、政府が昆布干場の希望者への割り渡し政策をとったため、移民がさらに増加した。その中の一人、西川幸右衛門氏が、生産物の買い取り・売りさばきを一手に引き受けるビジネスに挑戦したが、結局失敗してこの地を去り、1877(明治10)年以降は「勝手売買」が行なわれている。

1880(明治13)年、様似村に戸長役場が設置され、同役場が郡内のすべての村の事務を担当している。

年によって多少の差はあるものの、人口は毎年増加している。1897(明治30)年末現在の郡内戸数は343戸、人口は1558人である。


重要産物

昔から昆布とサケが重要産物である。ただし、近年は昆布の出荷額は大きくはない。1894(明治27)年以降、カレイ漁が発展し、毎年漁獲量が増えている。1898(明治31)年の水揚げは次の通り。

塩サケ 1569石 283m3
サケ筋子 11920貫 44.7t
昆布 3535石 627.7m3
カレイ絞り粕 1200石 216.5m3
イワシ絞り粕 436石 78.7m3
塩マス 235石 42.4m3
魚油 65石 11726リットル
フノリ 1260貫 4.7t
ギンナン草 5400貫 20.3t

水産物価格合計 は5万7694円。

農産物の生産量はわずかで、大豆370石(66.7m3)、小豆488石(88.0t)だった。


概況

様似川・ウンベツ川の沿岸以外には、耕作適地がほとんどない。様似郡の総人口に占める農業者の割合はおよそ30%に過ぎない。海岸沿いの各村の住民たちは全員、漁業に従事しており、川沿いや高台の土地で野菜を育てているていどである。 様似村には戸長役場・警察分署・郵便局・漁業組合事務所が集まっている。これらの事業所が郡内の全村の事務を引き受けている。

1897(明治30)年現在の保有船舶数、網数

昆布採取船 199艘
サケ建網 10カ統
マス建網 4カ統
イワシ建網 3カ統
曳き網 8カ統
カレイ漁川崎船 5艘
持符船 55艘

サケの漁場の大半は、矢本貞吉氏・三上兼太郎氏の二人によって経営されている。昆布漁・カレイ漁はそれぞれ村民の個人漁業である。郡内のほぼすべての漁業者への「仕込み」を矢本氏・三上氏が担っているため、函館から「仕込み」を受けている漁民はわずか数戸しかない。

近年は昆布が不作で、かつて2人乗りだった採取船に1人で乗って生計を保つ状態だったが、3年前からカレイ漁が興隆して、景気は回復傾向である。

郡内には耕作適地がわずかしかない。また低湿地の割合が高い。農業が見られるのは、様似村ウンベツ沿岸と様似川両岸、また岡田村・二七村・平鵜村のみ。開墾ずみの面積はわずかに621町8反歩(616.7ha)である。

土地の「貸し付け」を受けているのは郡内の有力者に限られ、小作者がとても多い。これから開墾を目指す土地の小作者には、わずかに開墾料をもらう人もいるが、通常の「仕込み」だけを受けている人もいる。

主な作物は大豆と小豆。またイナキビ・ハダカキビ・アワ・野菜などが栽培されている。農家への「仕込み」方法は浦河郡と同様である。

アイヌの居住地は岡田村・二七村である。アイヌは漁場での「雇い」で暮らす人がほとんどで、一部の人が農業をしている。貧困度が非常に高い。

郡内では、合わせて186頭の馬が飼育されている。二七村ほか4村の共同牧場と、鵜苫村の共同牧場が設定されているが、まだ設備が整っていない。

村々の経済はひとまとめにして共同管理下にある。様似村に村医がいる。鵜苫村と様似村に尋常小学校がある。様似小学校の分校が岡田村・冬嶋村・誓内村にある。


1899年の鵜苫村 うとまむら

地理
西方はウトゥムアンペツ川を挟んで浦河郡幌別村に接している。東方はフンベエトゥ岬を境に様似村と隣り合い、南方は海に面している。村域の大部分が丘陵地形で、海沿いに砂浜が続いている。プイニウシュナイ川の両岸にわずかに平地がみられる。丘陵部にはカシワ・ナラ・ハンノキの木が多い。アイヌ語の「ウトゥムアンベツ」は「合川」の意味。かつてこの川が幌別川に合流していたことを表している。この川の名前にちなんで、鵜苫村の名前がついた。

運輸交通
西に向かって浦河郡方面に通じる道路は、幌別川の(氾濫の?)せいでしばしば通れなくなるが、東側にはすぐ近くに様似村があって、すべての貨物がそこから供給されるので、不便さはない。

沿革
古くから昆布採取小屋が建っていた。文久年間(1861から1863年)に様似会所の番人(氏名不詳)と称する人がこの地に移住し、その後も2~3戸が移住してきた。1870(明治3)年にさらに5戸が加わり、1875(明治8)年、「昆布干場割り渡し」事業が始まると、様似から数戸が移住してきた。その後も少しずつ人口が増えている。

戸口
1897(明治30)年現在の戸数は52戸、人口は201人である。青森県出身者が最も多く、青森県出身者が続く。

集落
クオナイに小学校が建ち、小売店7軒、ホテル2軒、酒造店1軒が営業している。これに漁民の住宅を合わせ、30数戸の集落を形成している。ワクカエクナイに漁民の住宅10軒あまりの集落がある。また沿岸に沿って漁家が点在している。

漁業
1897(明治30)年の漁業現況は次の通りである。

昆布採取舟 30艘あまり
昆布平均収量 15石(2.7m3)/艘
サケ建網 2カ統
イワシ建網 1カ統
カレイ漁持符舟 10艘あまり
カレイ平均漁獲 25石(4.5m3)/艘

農業
村に農業適地は少なく、漁民が副業的に耕作しているに過ぎない。1戸の耕作面積は、もっとも広い場合でも2町5反歩(2.5ha)、ふつうは1町(1ha)前後である。強風の被害が農作物にも及び、アワ・キビの平均収量は1石2斗/反(216.5リットル/10a)である。大豆・小豆は自家消費に回すほか、様似の業者に委託して村外に出荷している。

牧畜
1896(明治29)年、村の共同牧場用地として17万坪(56.2ha)あまりの土地の「有償貸し付け」を受けたが、いまだ開業に至っていない。村内で馬を所有しているのは4戸、合わせて11頭にとどまっている。

商業
小売店が7軒ある。酒類・菓子類そのほかの雑貨を扱っている。

生計
春はカレイ漁。夏は昆布漁のかたわら農作業をしたり、漁場の雇い(出稼ぎ)に出たりしている。冬は伐木の仕事がある。近年は昆布の生育が悪いうえ、価格が低迷しているため、村民たちは厳しい生活を強いられている。村を出て活路を見出そうとする人もいる。

教育
鵜苫尋常小学校が1889(明治22)年に設置され、尋常科3年・補習科2年制である。現在の在校生は17人。

衛生
1897(明治30)年、麻疹や腸チフスの患者が出たが、幸いなことに流行には至らず、終息した。


1899年の様似村 さまにむら

地理
北西方面はフンペエド岬という小さな岬を境に鵜苫村と接している。北東側は岡田村、東側は平鵜村と隣り合っていて、南側は海に面している。

海中に向かって、岩がちなエンルム岬が突きだしている。岬は突端部がすこし幅が広くなっていて、中ほどは狭く、いわゆる「地峡」(両側から海が迫り、陸の一部が極端に狭まった地形)になっている。岬の東西には、それぞれ小さな湾がある。このうち、西側の湾に沿って様似の市街地が形成されている。

村の東側には様似川、西側にはウンベツ川が流れている。どちらも浅い川なので、船の進入は無理である。 ウンベツ川の沿岸部と、海岸沿いと、村は二つの地区に分かれている。

運輸交通
様似湾は、海に突き出したエンルム岬が風を妨げてくれるので、浦河湾に比べると、船を安全に停泊させることができる。それで、浦河湾から西側の港に入っている船が、暴風の日には様似湾に避難してくることも少なくないのだが、いかんせん小さな湾なので、大型船は入港できない。せいぜい小型の汽船や帆船、また「日本型船」が利用できる程度である。1897(明治30)年の利用実績は汽船83艘、帆船55艘、日本型船2艘だった。函館との行き来は便利である。日高国のなかで寄港する帆船数がもっとも多いのは、波浪を避けて一時寄港する船が多いためである。函館までは55海里(101.9km)。

海岸沿いに国道が通っていて、西方・浦河までは3里15町(13.4km)である。

沿革
かつて東蝦夷地の一番の要所とされ、様似場所の会所が設置されていた。幕府は1805(文化2)年、この地に等樹院を建立。また松前藩が1842(天保13)年、砲台を建設した。このため、様似には官吏・医師といった人びとが常駐していたのだが、開拓使時代に移ってからはとくに施設がつくられることもなく、浦河郡や幌泉郡と比べると、みるべき発展はなかった。

1875(明治8)年、郵便局を設置。1878(明治11)年、戸長役場を設置。1882(明治15)年2月、傍平村(そうびらむら)・桐橿村(きりかしむら)・海辺村(うんべつむら)を合併。

1875(明治8)年、「昆布干場割り渡し」政策にともなって移住人口が増加した。1880(明治13)年から1881(明治14)年にかけて、青森県・秋田県・富山県出身者などが移住してきた。

ウンベツ海岸では1889(明治22)年、石川県能登地方出身の橋爪順蔵氏が移住してきて農業を専業としている。1892(明治25)年には5戸に増加。1896(明治29)年から1897(明治30)年にかけて、富山県・福井県・青森県出身の農民15~16戸が移住してきた。

戸口
1897(明治30)年現在の人口は105戸、533人である。青森県出身者が最も多く、岩手県・富山県・新潟県出身者たちが混じり合って暮らしている。アイヌは4戸、12人しかいない。

漁業
1897(明治30)年の漁業現況は次の通りである。

昆布採取舟 30艘あまり
昆布平均収量 20石(3.6m3)/艘
サケ建網 2カ統
イワシ建網 1カ統
カレイ漁川崎船 3艘
  平均漁獲80石(14.4m3/艘)
カレイ漁持符舟 20艘あまり
  平均漁獲30石(5.4m3/艘)

昆布漁・カレイ漁のいずれも、ほとんどが村民経営の漁業である。

商業
様似郡内の生産物の大半は、いったん様似村に集荷されてから函館に輸出されている。また郡内の需要はすべて函館からの輸入でまかなわれ、(様似港に陸揚げした後、)各村に配分されている。

1897(明治30)年現在の輸出総額は6万4042円で、このうち1/3以上が塩ザケのシェアである。以下、昆布・カレイ絞り粕・イワシ絞り粕・サケ筋子・大豆・小豆・塩マス・魚油・毛皮類と続く。

輸入総額は8万6525円である。コメのシェアが高く、呉服・太物(厚手の衣料)・酒・塩・ムシロ・紙・綿・タバコ・石油・砂糖・しょう油・味噌・漁網・ロープ・からむし・薬品・種子などである。

金融のようすは浦河郡と同様。大規模な業者はいないので、浦河に比べると、5%~10%ほど物価が高い。

農業
ウンベツ川沿岸に農家が20軒余りあり、大半は小作である。谷垣某氏が5万坪(16.5ha)の貸し付け地を取得し、5軒の小作者を入れて開墾させている。開墾後の小作料は1~1.5円/反(10a)と、高い水準である。農家の中で「プラオ」「ハロー」所有者は2軒だけ。農業の規模は小さい。

製造業
酒蔵が2軒ある。1897(明治30)年の生産量は清酒61石(11m3)、濁り酒50石(9.0m3)だった。

牧畜
村全体で129頭の馬が飼育されている。このうちの50頭は駅逓の矢本貞吉氏の所有馬である。使役用馬以外の馬は二七村の共同牧場に放牧されている。このほか、10頭以上の馬を所有している人が数人いる。

風俗・人情
村内は平穏である。風俗もまあまあよい。

教育
1886(明治19)年、様似尋常小学校が設置された。尋常科3年、補習科3年制である。教員は1人。現在の在校生は49人。このうち男子2人はアイヌである。

衛生
様似郡の村々のなかで唯一、医師が常駐している。海岸沿いの地域なので、井戸を掘ってもよい水が出ないため、様似川から水を引いて飲料水にしている。

寺社
1871(明治4)年、住吉神社を設置。1875(明治8)年には「郷社格」にランクされた。表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・底筒男命(そこつつのおのみこと)の3つの神と、天照太神(あまてらすおおみかみ)とが一緒にまつられている。

等樹院は、村西部のウトルサンナイに建っている。号は「歸嚮山厚澤寺(ききょうざん・こうたくじ)」。天台宗・東叡山の末寺に位置づけられ、1802(亭和2)年の幕府命令をうけて、1805(文化2)年、秀暁僧侶が開いた。いわゆる「蝦夷3寺」のうちのひとつである。ヒグマの食害が甚大だったため、文化14(1817)年、ウトルサンナイに移設された。当時は幕府から毎年、コメ100俵と、12人分の扶持(給料)48両が交付されていた。

松前藩支配時代にも、幕府の先例に従って等樹院への手当て・給与は継続した。

1870(明治3)年以降は、収入源として、開拓使が等樹院に昆布干場2カ所を貸し付けた。1875(明治8)年、開拓使が「10カ年逓減法」にもとづいて扶持米を給与した。〈然るに当時の佳僧其人を得ず〉1885(明治18)年、無擅無佳(むせんむか)の状態に陥り、ついに廃寺になった。しかし、名刹の廃絶を惜しんだ村民たちが1890(明治23)年に説教所を設立し、1897(明治30)年7月、「歸嚮山厚澤寺」の名前をつけた。とはいえ、旧寺の建物はほとんど焼失してしまい、小さな集会所を建てただけの状態である。旧名刹をなくしてしまったのは惜しい。


1899年の岡田村 おかだむら

地理
北西部は山地・丘陵地帯である。東側は、様似川を挟んで二七村と隣り合い、南は様似村と接している。浦河郡との境界にはシヤマツキイワ山がそびえていて、様似川が東側の境界になっている。

「岡田」の語源はアイヌ語の「ヲカタ」で、「川のこちら側」という意味である。様似川両岸に沿って沖積土地形が形成され、土は肥えている。川をさかのぼっていくと湿原がある。

低地ではアカダモ・ヤナギ・カツラ・ハンノキ・ヤナギが優占するなか、トドマツが混生している。内陸に進むにつれ、針葉樹の割合が増えていく。

運輸交通
様似村までは1里(3.9km)の距離。1898(明治31)年、村民が話し合って政府に補助金を要望して道路を建設したため、交通の便が向上した。

沿革
もともとアイヌが暮らしている村落だった。1882(明治15)年2月、逢牛村・累地村・去魔村の3村を合併した。1885(明治18)年、青森県出身者が狩猟業のかたわら農業を始めたのが、岡田村における和人入植の最初の例になった。 1886(明治19)年4月、アイヌ「授産」事業のため北海道庁は中馬秀普氏・山村矩平氏を派遣して、アイヌに農業を教えた。事業終了後、山村矩平氏はそのまま岡田村に残って定住した。

kimpetatuyこの〈「アイヌ授産」事業事業〉は、「札幌県旧土人救済方法」(1885年)にもとづく10年計画の事業を指すものと考えられます。(平田剛士)

1891(明治24)年には学校を設置。1894(明治27)年、福井県・富山県出身者20戸が入植し、その後も入植者は増えている。

戸口
1897(明治30)年末現在の村内人口は、76戸・264人である。このうちアイヌは26戸・141人。

農業
アイヌは頑迷なので、農業の方法を教えようとしても、非常に嫌がる。そのうえ、人手の足りない漁業者たちが甘い言葉を弄してアイヌを漁場仕事に駆り出そうとするので、いっそう(アイヌに農業をさせるのは)難しい。そこで、1反歩(10a)の土地を開墾した人には報償として玄米5升(90リットル)を渡すことにし、「漁業は水揚げが不安定で、まともな仕事とは言えない」と教え諭して、ようやく各世帯平均1町歩(1ha)ずつを開墾することろまでいった。ところがこの「保護」事業が廃止されると、たちまち元に戻ってしまった。現在は各世帯あたり2~6反歩(20~60a)の畑で作付けする人ばかりで、1町歩(1ha)の耕作者は一人だけである。

kimpetatuy 原文は〈農業教授ノ際ハ「アイヌ」頑冥ニシテ其業ヲ厭フコト甚ダシク殊ニ漁業者ハ雇人夫ナキガ為メ甘言ヲ以テ「アイヌ」ヲ誘出セント計リ甚ダ困難ヲ極メシカバ一反歩ヲ開墾セル者ニハ其賞トシテ玄米五升宛ヲ付与シテ奨励シ且海産業ハ豊凶定リナク安全ノ業ニアラザル旨ヲ諭シ漸ク毎戸平均一町歩ヲ墾成セシム而カモ保護ノ廃止ト共ニ再ヒ放恣ニ流レ農業ヲ捨テ丶顧ミズ〉。「頑冥」「放恣」といった言葉遣いに、報告者(北海道庁殖民部員)のアイヌ住民に対する非難のニュアンスがみられます。また、この「農業教授」(1885年「札幌県旧土人救済方法」)が、アイヌたちに漁業などほかの職業選択を許さず、農業だけに従事させようとする強制政策だったことがうかがえます。(平田剛士)

いっぽう和人では、様似村の高尾氏が岡田村内に貸付地9万坪(30ha)を所有して、小作7戸に開墾させている。このほか、2万~4万坪(6.7~13ha)の貸付地所有者が10人あまりいて、自作法または小作法で開墾している。

小作法の場合、新墾(農地造成)では、3~5年間にわたって食料・種子・農機具の貸し付け供給を受け、毎年の収穫物の販売代金で返済し、足りない分は月利2.5%の借金で賄う、というのが一般的である。鍬下年季(くわしたねんき 1884(明治17)年の地租条例で、開墾後、地目変更までの一定期間)は原則3年。

すでに開墾した農地の小作料は1反歩(10a)あたり50銭~1円である。12人がプラオを、5人がハローを所有している。主な作物は大豆・小豆。藍を生産する農家が数戸ある。

商業
小売店が7軒ある。すべて農家の副業で、浦河や様似から酒・菓子・雑貨を仕入れて販売している。


1891(明治24)年ごろまで、ほとんどのアイヌが馬を所有していた。和人の入植が進むにつれ、さまざまな方法で保有権を手放し、馬を所有するアイヌは現在、6人しかいない。和人は各世帯1~2頭から7~8頭を保有し、二七村の共同牧場に放牧している。農耕に使うときは舎飼。

kimpetatuy 大量の和人移入者に圧迫されるかたちで、アイヌが馬の保有権を手放していた様子がうかがえます。(平田剛士)

木材薪炭
ヤナギ・カツラなどを材料にして鉄道の枕木を生産している。1897(明治30)年の出荷量は約1万挺、単価は18銭だった。薪1敷は40銭。

炭焼き窯は3カ所。貸付地の樹木を材料に農閑期に炭焼きが行なわれている。様似方面に出荷し、8貫目(30kg)入り1俵22銭。

風俗人情
小作者が多く、永住の意志は強くない。粗野な人が多い。

生計
アイヌは、夏は漁場での出稼ぎ、冬は森林伐採や狩猟の仕事をしていて、生活困難な状態におちいっている。和人小作者は貧困なままで、土地所有者に「仕込み」の返済ができず、1世帯あたり50~100円の負債を抱えている。

教育
様似尋常小学校岡田分校が1891(明治24)年に開校した。教員1人、就学生20人(うちアイヌ4人)。冬期間は年長者のための夜学を開いている。


1899年の二七村 にななむら

地理
西方は、様似川を境にして岡田村と接している。北東部は丘陵地形。南側は平鵜村(ぴらうとむら)に面している。村は南北に長く、東西の幅は狭くて、細長い形をしている。村名の「ニナナ」は、村内を流れるニナナイ川に由来する。ニナナイ川下流域の湿地には泥炭が見られる。低地ではヤチダモ・アカダモ・ハンノキ・ヤナギなどが優占する。また丘陵部にはナラ・カシワ・ハンノキ・カエデが多くみられ、トドマツが混生している。林床にはササがよく発達している。

運輸・交通
様似村からはおよそ30町(3.3km)の距離。物資は馬の背中に乗せて運ぶしかない。

沿革
もともとはアイヌの部落であった。1882(明治15)年2月、農助村を合併した。岡田村と同じように、1886(明治19)年4月から、アイヌを対象とする農業指導事業が実施された。1894(明治27)年、山形県出身の某氏が、角材生産に供する材木伐採のためにこの村に移住してきた。翌1895(明治28)年以降は、富山県・福井県からの入植者が住み始めるなど、戸数が増えている。

戸口
1897(明治30)年現在の戸数は36戸、人口190人である。うちわけは和人20戸、アイヌ16戸。このほか、無届けのまま住みついている和人の家が10戸ほどある。

農業
和人のうち、12人が貸し付け地を手に入れて農業を行なっている。このうち3人はそれぞれ数万坪ずつの土地を所持し、2~3戸の小作を入れて開墾している。農業の景況は岡田村と同様である。

牧畜
様似村・二七村・岡田村・平鵜村・冬嶋村の5か村の有志が協働で二七牧場を開設している。1896(明治29)年から1901(明治34)年までの5年間は有償貸付地で、面積は42万4561坪(140.3ha)。ただし現状は、牧舎1棟、長さ100間(181.2m)の排水溝と、同じく長さ100間(181.2m)の牧柵を敷設してあるだけである。種牡馬として役所から南部産・乗用の雑種馬1棟をレンタルしている。交尾料金は60銭/頭、牧場使用料は1円30銭/頭。四季を通して屋外放牧するシステムで、種牡馬のみ舎飼いである。村民所有の馬の頭数は50頭にすぎない。

木材・薪炭
1897(明治30)年、トドマツの角材300石(54.1m3)を出荷した。その単価は100円/100石ていどである。村内に炭焼き窯が2カ所あり、冬期だけ稼働している。

風俗・人情・生計
和人・アイヌとも、岡田村と同様である。


1899年の平鵜村 ぴらうとむら

地理
西方は様似川を挟んで様似村(さまにむら)に、また北側は二七村(にななむら)と隣り合っている。東部は丘陵地帯を越えて冬嶋村(ぶよしまむら)に接し、南側は海に面している。全体的に山がちで、平地は少ない。とりわけ海岸部は絶壁が続いていて、様似川沿岸部にだけ土地が開けて、湿原ではあるが、営農可能である。

海沿いには、カシワ・ヤナギが多く生えている。少し内陸に入るとトドマツが多い。海岸沿いに国道が開通している。

沿革
1870(明治3)年、様似場所に出稼ぎに来ていた人が3戸、初めてこの場所に定住したのを皮切りに、1875(明治8)年以降、少しずつ人が増え始めた。1882(明治15)年2月、門別村(もべつむら)・染近村(しみちかむら)・白里村(しらりむら)・核蘂村(さぬしべつむら)の4村を合併。字(あざ)カネカルシナイは、かつて金鉱山が開かれた地区で、「寛文の乱」(シャクシャイン軍-松前藩戦争、1669年)の後、廃鉱になったと伝えられている。

戸口
明治30年末現在の戸数は21戸、人口は135人である。このうちアイヌは3戸12人である。海岸沿いに2~3戸ずつ固まって、飛び飛びに家が建っている。

漁業
1897(明治30)年の現況は以下のとおり。

昆布採取船 50艘あまり
昆布収穫量 20石(3.6m3)/艘
サケ建網 3カ統
サケ曳き網 2カ統
カレイ漁持符船 20艘あまり
カレイ漁獲量 30石(5.4m3)/艘

農業
1894(明治27)年からの漁獲不振の影響で、漁業から農業に転換する人が少しずつ現れている。大坂某氏は8万坪(26.5ha)の貸付地を申請・入手し、小作者6戸を入れて開墾を進めている。そのほか、2~3人がそれぞれ数万坪ずつの土地で小作数戸を入れて開墾している。

新たに開墾する場合の支給金額は、鍬下(実際の作付までの準備期間)3年の条件下で、ヤチボウズ除去費が65銭/1反(10a)、開墾費が1円25銭/1反(10a)である。

プラオ所有者は2戸にとどまる。馬の所有者は4戸、合わせて37頭である。

生計
ほとんどの村民が漁業者で、本業の合間に農作物を栽培している。春はカレイ漁、夏は昆布漁、秋はサケ漁の出稼ぎに従事し、冬期間は森で伐採の仕事をするのが一年の仕事のサイクルである。裕福な人はいない。


1899年の冬嶋村 ぶよしまむら

地理
西隣の平鵜村(ぴらうとむら)との境目はブヨシマである。北側には山々が連なっている。東側はポロマシベツ川を挟んで幌満村(ほろまんむら)に接している。

内陸のピンネシリ山から延びる支脈が、2里(7.9km)ほど離れた海岸まで到達して、険しい岩だらけの岸壁をつくっている。村全体が山岳地帯に含まれて平地はなく、わずかに海辺に沿って集落がつくられている。

アイヌ語の「ブヨシマ」は「穴の開いた岩」という意味。当地の海岸に、大岩に自然に穴が開いて、石門のように見える場所があり、この地名が付いた。

海岸すぐのところからトドマツが生えている。またカシワ・ナラ・ハンノキなどの混生が見られる。

運輸・交通
様似山道(さまにさんどう)は昔から難所としてその名が知られている。旅するにも荷物を送るにも不便なので、1891(明治24)年から1892(明治25)年にかけて、海岸にそそり立つ岩を削って、数カ所にトンネルを掘って新しい道路を造った。しかし荒天時には波が怒濤となって道路を洗い、通行止めになることもあるという。

沿革
昔から昆布採取のための小屋が建つ場所だった。寛政末期(1800年)に様似山道が開通し、コトネイに休憩所が設けられた。 文久年間(1861~63年)には、当時の様似場所番人だった布施甚助氏が初めて(越冬して)定住した。1870(明治3)年以降に戸数が増え、1873(明治6)年には16戸になった。

1882(明治15)年2月、郡内村(くんないむら)・嘯牛村(つけうしむら)・小霄村(おゆないむら)の3村を合併。 1891(明治24)年~1892(明治25)年ごろから昆布があまり成長しなくなり、村から出ていく人があり、1898(明治31)年までに10戸ほど減少した。

戸口と集落
1897(明治30)年末現在の人口は25戸、153人である。最も多いのは青森県出身者、ついで秋田県出身者である。ブヨシマに10戸ほどが集落を形成して、小学校、ホテルが2軒、小売店が2軒ある。ほかは海岸沿いに1~2軒ずつの家が飛び飛びに建っている。

漁業
1897(明治30)年の現況は以下のとおり。

昆布採取船 31艘
昆布収穫量 20石(3.6m3)/艘
サケ建網 3カ統
カレイ漁持符船 10艘あまり
カレイ漁獲量 30石(5.4m3)/艘

農業
沿岸はすべて断崖絶壁で、農業の適地がない。高台の傾斜地や小河川の岸際でわずかな野菜がつくられているだけである。 馬を所有している人は4名で、村内に計41頭の馬がいる。

森林
冬嶋官林は、大森林として有名である。広大な面積を有し、東西は平鵜村から幌満村までがそのエリアに含まれ、海岸沿いまでトドマツ林が迫っている。内陸部はエゾマツとゴヨウマツの混交林である。森の景観は素晴らしいが、材木としての品質はやや劣る、と言われている。周辺の村々への材木の供給地である。

生計
村民は、カレイ・サケ・昆布漁業に従事している。また冬期は森林で仕事をしている。しかし家計は苦しく、近年は村を出てしまう人がいる。

教育
1889(明治22)年、様似尋常小学校冬嶋分校が開校した。尋常小学3年制と補習3年制がある。就学生は15人。


1899年の幌満村 ほろまんむら

地理
西隣の冬嶋村(ぶよしまむら)との境界はポロマンベツ川である。北部には山脈が横たわっている。東方はチカプナイ(川)を挟んで誓内村(ちかぷないむら)と接し、南方は海に面している。

村は全体が山岳地形で平地はほとんどない。わずかにポロマンベツ川の河口部にほんの少し、砂浜が形成されている。

村の北方にそびえるオロクンネヌプリの支脈が海岸まで延びてきて、断崖絶壁地形を形成している。北側の村界に水源を持つポロマンベツ川は、ペンケトチキサプ川・パンケトチキサプ川など多くの渓流を合流させながら幌満村に流れてきて、海に注いでいる。そこに渡船場がある。

幌満の地名は、アイヌ語の「ポロシュマペツ」(大石川、の意)にちなむ。

運輸交通
海岸沿いに国道が開通している。様似まで2里(7.9km)、幌泉までは3里(11.8km)ほど。交通は不便である。

沿革
幌満村は、かつて場所請負制の時代には幌泉場所に属していたが、1802(享和2)年に様似場所に移管された。それ以前にここにすんでいた人はいない。旅行者向けの宿泊施設もなかったため、困っている人が多かった。そこで、南部藩出身の和助という人が移り住んできて小屋を建てて、旅行者に部屋を提供するようになった。和助氏はまた、様似山道敷設に尽力した。その功績を評価した近藤守重と最上徳内の進言を受けて、幕府は和助氏に小屋のまわりの45町歩(45ha)を付与し、そのままずっとこの場所を和助氏に守らせることにした。しかし1821(文政4)年、幕府直轄制が解除されて松前藩領に復帰すると、松前藩は和助氏を追放、土地も没収した。その後、安政年間(1854〜1859年)になってようやく和助氏が復帰。最期までこの地で過ごし、その子孫が現在も幌満村に暮らしている。

1875(明治8)年、昆布干場の「土地割り渡し」事業が始まると、出稼ぎ者の中から、この地に永住する人たちが出てきた。1882(明治15)年〜1883(明治16)年には戸数は15〜16戸になったが、その後、昆布の生育が悪化し、価格も低迷しているため、住民戸数は少しずつ減っている。

戸口
1897(明治30)年末現在の人口は9戸、57人である。青森県出身者が多い。ホテルが1軒あったが、1895(明治28)年に廃業してしまった。

漁業
1897(明治30)年の現況は以下のとおり。

昆布採取船 20艘あまり
昆布収穫量 20石(3.6m3)/艘
サケ建網 2カ統
イワシ曳き網 1カ統
イワシ建網 1カ統
カレイ川崎船 1艘
カレイ漁持符船 3艘
カレイ漁獲量(川崎船) 80石(14.4m3)/艘
カレイ漁獲量(持符船) 30石(5.4m3)/艘

農業
村内に農業可能な平地はない。住民は、高台や山腹でわずかな土地を開いて野菜を栽培しているが、土が痩せているので、魚肥や人糞堆肥を用いているという。

馬を所有する村民は3人。馬の数は合わせて6頭である。

生計
村人たちは、春はカレイ釣り漁、夏は昆布収穫、秋はサケ漁場で雇われ、冬は薪割りや林内での伐採の雇い仕事に従事している。暮らし向きはよくない。


1899年の誓内村 ちかぷないむら

地理
西方はチカプナイ(川)を挟んで幌満村(ほろまんむら)と接している。北部は高原・山脈に占められ、東側はニカンペツ川を境界に幌泉郡(ほろいずみぐん)近呼村(ちかよっぷむら)と隣り合っている。村は全体が山岳地形。ニカンペツ川沿いにわずかな平地と丘陵地形がみられ、かろうじて農耕が可能である。

北部にライキウンウプリ(山)と、ペタヌシㇼウトゥル山がそびえている。ニカンペツ川は、これらの山中に源流を持ち、幌泉郡との郡界線上を流れて海に注いでいる。

海岸沿いに国道が通っている。様似村まで3里25町(14.5km)、幌泉村まで3里10町(12.9km)。

沿革
もともと幌泉場所に属していたこのエリアが様似場所に編入されたのは、1802(享和2)年である。1871(明治4)年、様似場所マネジャー(番人)を務めていた佐藤嘉兵衛氏が、(場所請負制廃止後も)そのまま永住することを決めた。1875(明治8)年、1876(明治9)年ごろから、この地域に移住してくる人が少しずつ増え始めていたが、近年は昆布の価格低迷が続き、そのせいで10戸ほど住民が減ってしまったという。

戸口
1897(明治30)年末現在の戸数は19、人口は82人である。青森県出身者が多い。

漁業
1897(明治30)年の現況は以下のとおり。

昆布採取船 20艘あまり
昆布収穫量 20石(3.6m3)/艘
サケ建網 1カ統
イワシ建網 1カ統
カレイ川崎船 1艘
カレイ漁持符船 2艘

農業
村人は、本業である漁業のかたわら、各戸平均5〜6反歩(50〜60a)の畑を開いて自家用の作物を作っている。このうち2戸がそれぞれ1頭ずつ、馬を所有している。

商業
小売店が2軒ある。酒類・菓子類を販売している。

生計
幌満村と同様である。

教育
1889(明治22)年、様似尋常小学校誓内分校が設置された。漁業最盛期にあたる7〜9月の3カ月間は休校になる。現在の在校生は10人。