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更新日 2022/08/04

1900年ごろの浦河郡

kimpetatuy北海道廳殖民部『北海道殖民状況報文 日高國』(1899)から、浦河郡のパートを抜粋して、現代文に書きくだしてご紹介します。先住民族アイヌに対して(一部の和人入植者に対しても)差別的・侮蔑的な表現がひんぱんに現れますが、当時の北海道庁(日本政府)の植民地観をうかがい知るうえで重要と思えるので、あえて残しています。枠内は引用者による解説です。(平田剛士)

1900年ごろの浦河郡 うらかわぐん

沿革
浦河(うらかわ)は、アイヌ語の「ウラッカ(霞が晴れる、の意味)」が転じてこのように称されるようになった。松前藩支配時代は「浦川場所」と呼ばれ、オーナーは北川重次郎氏だった。当初、元浦川に運上屋を設けていたが、後年、現在の場所に移したという。天明・寛政時代(1781~1800年)は阿部屋金兵衛や住吉屋がこの場所を請け負い、1799(寛政11)年の幕府直轄期を挟んで、1813(文化10)年、松前在住の佐野伝左衛門が請負人になってからは、佐野家が請け負うようになった。1869(明治2)年9月、場所請負制が廃止され、以降は函館産物会所出張所が漁業経営を取り仕切った。1871(明治4)年になると、(政府は)肥後国天草郡、肥前国(ひぜんのくに)彼杵郡(そのぎぐん)から農民を入植させて、西舎(にしちゃ)・杵臼(きねうす)の2村を開いた。1872(明治5)年9月、浦河支庁開設。1874(明治7)年5月に支庁を廃止して札幌本庁に移管し、出張所設置。1876(明治9)年4月に出張所を廃止して分署に移管。1879(明治12)年1月、郡役所設置。明治14年、神戸から赤心社[1]の移民が荻伏村(おぎふしむら)・西舎村に入植すると、ようやく開拓が進み始め、1894(明治27)年ごろから入植者数が急増した。1897(明治30)年末の戸数は1202戸、人口は6541人である。

[1] 〈兵庫県神戸市内で北海道開拓を目的に組織され、浦河を開拓地と定めて移住した開拓会社「赤心社」は明治13年に設立されました。社名は17条からなる同盟規則の「報国の赤心に奮起する」から付けられた〉伊藤昭和「北の大地に移り住んだ開拓団体「赤心社」」http://www.hk-curators.jp/archives/1272

重要産物
以前からサケ、昆布、タラの漁業が行なわれてきた。1894(明治27)年からカレイ漁が盛んに行なわれるようになり、いまでは重要産物の一角を占める。1897(明治30)年の水産物出荷量は以下のとおり。

塩蔵サケ 2950石 532.0m3
サケ筋子 4906貫 18.4t
カレイ搾り粕 3346石 603.6m3
長切り昆布 2700石 487.0m3
イワシ搾り粕 2033石 366.8m3
塩蔵タラ 367石 66.2m3
サメ搾り粕 181石 32.7m3
魚油 216石 39.0m3
煎りナマコ 8320貫 31.2t
ギンナンソウ 4525貫 17.0t
そのほかふくめ合計価格 9万9934円

農産物は年を追うごとに生産額を増している。1897(明治30)年の出荷額は以下のとおり。

大豆 7944石 1433.1m3
小豆 2171石 391.6m3
葉藍 14852貫 55.7t

このほか雑穀1402石(252m3)が収穫され、郡内での自家消費に回っている。
製造品としては、わずかにマッチ軸木が893石(161m3)、価格にして1339円分が出荷されたにすぎない。

概況
浦河は日高国第1の重要地であり、家屋が建ち並んで市街地を形成し、商業・漁業、またその他の業種の従事者が多い。浦河支庁、警察署、郵便電信局などの機関がすべてこの地に設置されている。これに次いで大きいのが荻伏村で、農家と漁家が半分ずつを占めている。姉茶村(あねちゃむら)・野深村(のぶかむら)・向別村(むこうべつむら)・西舎村・杵臼村・幌別村(ほろべつむら)などの村々では農業が中心で、後辺戸村(しりへどむら)・井寒台村(いかんたいむら)・後鞆村(しりともむら)の3村は漁業を中心に農業も行なわれている。アイヌは野深村・姉茶村・向別村・西舎村・杵臼村・幌別村に居住しており、農業をわずかに営むほか、漁業の出稼ぎをして暮らしている。
近年物価が高騰しているが、昆布は生育が悪くて売価が低いまま推移しており、富裕な人はいない。しかし、1895(明治28)年以降、カレイ漁が急速に発達してきたおかげで、景気はいくぶん上向いている。
1897(明治30)年現在、浦河郡全域の漁業規模は以下のとおり。

サケ建網 8統
サケ引網 14統
マス建網 5統
イワシ建網 2統
イワシ引網 9統
昆布採集船 280艘
カレイ漁川崎船 37艘
カレイ漁持符(もちっぷ)船 72艘
タラ漁川崎船 29艘
タラ漁持符船 26艘
サメ漁川崎船 19艘
サメ漁持符船 17艘

カレイ漁と昆布採集には、新潟・富山・福井県などから入漁している函館在住漁業者が少なくない。

浦河郡内の開墾済み面積は1783町8反歩(17.7km2)である。ダイズ・小豆が中心で、そのほかにトウキビ、ハダカキビ、ヒエ、ソバ、野菜類が自家消費されている。杵臼村・西舎村・幌別村では1892(明治25)年から藍を作付けしている農家がある。農家は、漁場でのシステムと同様に、業者からあらかじめ米、味噌、衣類から日用品に至るまで「仕込み」を受け、秋の収穫物で代金を精算する仕組みである。ひとたび凶作に見舞われればとたんに返済が滞り、非常な危機に陥ってしまう場合がある。現に、1897(明治30)年に不作、翌1898年に大凶作となり、郡内の農家は平均して一戸あたり50円以上の負債を抱えてしまった。天災なのでしかたのない面もあるが、凶作に備えてふだんから貯蓄に励んでいれば避けられたかもしれない。

郡内の馬数は合計2098頭である。牧場の数は多いが、赤心社経営のものを除けば、規模は小さく、施設も整っていない。農家が1~2頭ずつ飼養している馬が大半であり、多いところでは70~80頭を飼育している人もいる。牛は赤心社で153頭、また井寒台村で7頭が飼育されている。

日高国では、アイヌは知識に乏しく、自立できていない人がほとんどである。なかでもここ浦河郡のアイヌは最も哀れむべき状態にある。

kimpetatuyアイヌに対するこうした人種差別的な表現が、この「北海道殖民状況報文」をはじめ、当時の公文書には、ひんぱんにみられます。(平田剛士)

1872(明治5)年〜1874(明治7)年の3年間にわたり、政府官吏はアイヌに昆布採取を命じ、売上代金の一部を貯金していたところ、金額が6000円あまりになったので、利殖を図るといって、そのカネで日本郵船社の株券を購入した。1886(明治19)年、札幌製糖社創立に際して、日本郵船社株を札幌製糖社株に買い換えたのだが、同社が不振に陥ったため、株券はただの紙くずとなってしまった。
1886(明治19)年、アイヌ「授産」事業が始まり、政府官吏が出張してきてアイヌに農業指導を行なった。1888(明治21)年にはプラウとハローそれぞれ2台ずつを各村に配置。馬の数の足りない姉茶村・野深村・後辺戸村には、各2頭ずつ給与した。1890(明治23)年時点で、浦河郡全体でアイヌ開墾地は約280町歩に達したが、同じ年、保護法が廃止され、当時の郡長が八方手を尽くして、アイヌが将来、独立自営の道を歩くための基盤と称して、1891(明治24)年からむこう15年の協栄組合を設立。中馬秀普が組合長となり、漁業・農業経営の事務をすべて取り仕切った。しかしアイヌは農業を怠り、半農半漁となってゆき、その後の昆布不漁で多大な損失を招いてしまった。負債総額は2700円を超えた。それまでにアイヌが開墾してきた畑地約100町歩(100ha)と、海産干場109カ所を非アイヌに賃貸してその収益を返済に充てることにし、1897(明治30)年、組合は解散した。このような状況下で、浦河郡に裕福なアイヌは一人もいない。茅ぶきの小屋とわずかな粗食によって暮らさざるを得ない状態である。

浦河郡内の各村の戸長役場の事務は、すべて浦河支庁が管轄し、各村を総合して共同事業を経営している。全11村共同の財政費目は、会議費・村費取り扱い費・衛生費である。浦河村・井寒台村・向別村・後鞆村・幌別村・西舎村・杵臼村の7村は合同で村医を置き、基本財産を持っている。また、浦河村・向別村・井寒台村・後鞆村の4村は合同で学校を持っている。荻伏村・姉茶村・野深村・後辺戸村の4村は合同で学校を持ち、村医を置いている。西舎村と杵臼村には、それぞれ学校がある。


1900年ごろの荻伏村 おぎふしむら

地理
西方はポンニウシ川を挟んで三石郡(みついしぐん)鳧舞村(けりまいむら)に接し、北側は姉茶村、東方は元浦川を挟んで後辺戸村と、それぞれ接している。南側は海に面している。地勢によって、海岸部と元浦川河岸部に二分できる。元浦川河岸部は平坦地が広がり、土壌は肥沃である。海岸部は狭い砂浜が形成され、その背後は丘陵地形である。ポロニウシ川、オオホナイ川、イカリウシ川などの小河川が流れ込んでいる。丘陵を覆う森林はカシワが大半を占め、次に多いのはヤナギである。

沿革
アイヌ語のオニウシは、「境界」を意味する。かつてここに浦河場所エリアと三石場所エリアの境界を示す木製の標識が立っていたことから、この地名がついたといわれている。イカリウシには昔から番屋が建っていた。毎年夏のシーズンには沙流地方からアイヌが来て、昆布を採集していた。安政年間に、幕府が元浦川のそばに牧場を開設した。1872(明治5)年、この村に最初に住み始めたのは、浦河会所の番人と出稼ぎ労働者たちである。1875(明治8)年に昆布干場の割り渡しが行なわれて6戸を加え、1881(明治14)年には15戸に増えた。その後、赤心社の集団入植があって戸数は大きく増加し、1887(明治20)年ごろには商店が開業している。1895(明治28)年からはカレイ漁師が増え、さらなる発展期を迎えている。

戸口
1897(明治30)年末現在の戸数は81戸、人口は584人。青森県・秋田県・岩手県・兵庫県・広島県そのほかからの入植者が混住している。

集落
海岸部の戸数はおよそ40戸である。イカリウシには巡査駐在所、旅館、雑貨店、酒造所がある。漁業期には飲食店、小売店など数店舗が臨時的に営業するという。
元浦川沿岸部の戸数はおよそ40戸である。国道沿いに学校・病院・酒造所・雑貨店・木賃宿・鍛冶屋などがある。

漁業
沿岸漁業の好漁場である。1897(明治30)年の漁獲量は以下のとおり。

カレイ搾り粕 549石 99.0m3
昆布 1098石 198.1m3
塩ダラ 40石 7.2m3
塩サケ 339石 61.2m3
マス 6石 1.1m3
サメ 4石 0.7m3

昆布干場は56カ所で、このうち和人所有のものはわずか15浜に過ぎず、その他の干場は姉茶村・野深村などのアイヌの「貸付浜」である。
カレイ漁船は川崎船2艘、持符(もちっぷ)船39艘。漁業従事者の技術は未熟ながら、今後の発展が期待されている。川崎船は6人乗り組み、持符船は3人乗り組みで、その多くは村民、または地元のアイヌである。他の地方からの出稼ぎ者は少ない。
漁民たちに仕込み(漁具や日用品提供)をしているのは地元の商店である。採算が取れないため、タラ・サメ一本釣り漁に出る漁師はほとんどいない。かつては元浦川にサケが盛んに遡上していたが、現在は非常に少なくなってしまった。

農業
1881(明治14)年、赤心社員たちが元浦川沿岸部に入植したのが、荻伏村における農業の始まりである。農業専門の村民はわずかに4戸。赤心社元社員の堀虎吉氏はポロニウシで23町歩(23ha)の農場を経営する自作農である。4月から11月にかけてアイヌ5人(おとな、子ども)を雇い、プラウ3台、ハロー1台を使って、大豆13町歩(13ha)、小豆5町歩(5ha)などを生産している。
貸付地所有者の大半は小作開墾法を利用している。同法は、3~4年の期限付きで、未開墾地の場合は政府から農具や種子の提供、また開墾費を受け取って開墾を進める仕組み。すでに開墾された土地に入植した場合は、1反(10a)あたり50銭~1円の小作料を支払う必要がある。
ほとんどの農家はプラウ・ハローを所有、活用して、すでに各戸5町歩以上、多いところでは15~16町歩(15~16ha)を開墾して生産している。主な生産物は白大豆・黒大豆で、ハダカキビ・イナキビ・アワ・ソバ・バレイショなどを自家消費用に作付けしている。各農家は、仕込みを受けた承認に委託して、生産した大豆・小豆を出荷・販売している。
開墾済み農地の売買価格は1反歩(10a)平均6円~7円だが、国道沿いの農地では1反歩15円に達するところもある。

牧畜
1889(明治22)年、浦河郡共有金をもとに牧場を3カ所(荻伏村・井寒台村・西舎村)開設し、「浦河共同牧場」と名づけられた。しかし、地元農家はそれまでの「自由放牧」に慣れ親しんでいたので、わざわざ牧場を利用する人はなく、官営管理を中止した。これらの牧場のうち、荻伏村の牧場ついて、1895(明治28)年、荻伏村・姉茶村・野深村・後辺戸村の有志16人が改めて共同経営することになり、1895(明治28)年から1899(明治32)年までの5年契約で有償貸付が行なわれた。同牧場の面積は約62万坪(206ha)、入牧料は馬1頭あたり1円20銭。牝馬32頭と、農耕種の官有馬1頭を受け入れている。官有馬は10月から4月まで厩舎内で飼育し、牧草やエン麦を与えている。設備が不十分なため、維持するのは難しい。
ほとんど農家は馬を飼っている。1戸で20頭以上を飼育している農家もある。

商業
商店が8店ある。このうち3店舗は函館と直接取引して、村民の「仕込み」を担っている。村内のほとんどの漁民はこれら商店から仕込みを受けている。また農家の多くは浦河から仕込みを受けている。

製造業
元浦川に2軒、イカリウシに1軒、醸造所がある。1897(明治30)年度の合計生産量は、清酒が206石(3万7162リットル)、濁り酒が38石8斗(6999リットル)、焼酎が10石2斗(1840.1リットル)。

風俗人情
農家は,以前はコメをよく食べていたが、1897(明治30)年の凶作により、節約してコメを雑穀に切り替えるようになっている。農民・漁民のどちらも困窮者はいない。

教育
赤心社が赤心小学校を設置して、会員家庭の子どもたちに教えていたが、徐々に入植者が増加して公立小学校が求められるようになり、1891(明治24)年年1月、荻伏村・姉茶村・野深村・後辺戸村の4村が共同で浦河小学校の分校を建てた。私立赤心小学校を閉校して分校と合体させ、1892(明治25)年に浦河小学校から独立した。その後も生徒数は増加し、1897(明治30)年には高等科を併置。現在は教員2人、就学生128人(うちアイヌ3人)である。

衛生
村医が1人いる。1894(明治27)年1月、寄付金を募って病院が新築された。

社寺
イカリウシに日蓮宗説教所が、また赤心社開墾地にキリスト教信教派の教会がある。


1900年ごろの姉茶村 あねちゃむら

地理
南西は荻伏村に接し、西方の丘陵部に三石郡鳧舞村との境界がある。東は丘陵を挟んで井寒台村、南は後辺戸村、北は野深村と隣り合っている。村域は元浦川に沿って南北に長く、南北の丘陵によって他地域から隔てられている。
元浦川の両岸は肥沃ながら湿原が多く、約300町歩(300ha)は排水しなければ農業ができない。1891(明治24)年、官費475円を注ぎ込んで長さ1050m、幅1.8mの排水溝が建設されたのだが、いいかげんな設計で効果はほとんどなく、現在まで排水成功の実績はない。
元浦川は野深村から流れてきて姉茶村内を南下し、荻伏村に流れ出ている。アネサラ川・オサルシナイ川・ウナシュナイ川などの小河川が、西側の丘陵地から流れてきて元浦川に合流している。
アネサラは、アイヌ語で「細いカヤ」を意味する言葉で、それが村名の由来である。

運輸交通
元浦川の両岸に沿って、それぞれ1本ずつ里道がついている。長さは2里(7.9km)ほどで、国道に通じている。これとは別に、東側の丘を越えて井寒台村エブイに通じる細い道がある。

沿革
姉茶村には従来、アイヌが集落を形成していた。1880(明治13)年、青森県からの出稼ぎ漁業者2名が姉茶村に入植し、農業を始めた。1882(明治15)年2月、透消村を合併。また同年、赤心社の募集に応じた農民10戸が姉茶村に入植した。1891(明治24)年、越前(福井県)大野郡からの移民が入植し、少しずつ戸数が増えている。

戸口
1897(明治30)年末現在の戸数は82戸、住民人口は430人とされるが、実際の人口はこれより多いとみられる。このうちアイヌは39戸、187人である。

農業
農業者は元浦川両岸に住み、その多くは5町歩~10町歩(5~10ha)の農地で作付けし、全員がハロー・プラウを使用している。大半は小作であり、このうち赤心社の農場に11戸が入植している。
アイヌは以前、農業指導を受けたときは、1戸あたり1~3町歩(1~3ha)を開墾して作付けしていたが、もともと農業をするのを嫌がりがちで、だんだん漁場への出稼ぎに出る人が増え、自分の畑地を和人に貸して、小作をさせているケースが多い。ただ、表向きは小作と言っているが、実際は小作ではない。食品購入費などの借金を返済する代わりに農地を提供しており、経営の実権は和人に移ってしまっている場合が多い。このような実態は姉茶村に限らず、ほかの地域のアイヌも同様である。現在、姉茶村で3町歩の面積で農業を続けているアイヌは3戸しかなく、ほかのアイヌは1反歩~1町歩(10a~1ha)での耕作にとどまっている。遠山ラフコレ氏は9万7500坪(32.2ha)、浦ンタラクル氏は6万坪(19.8ha)の農地を(和人に)貸し付けているが、自分では耕作せず、ほとんどを和人に貸している。

商業
日用品と酒を扱う業者が3店舗ある。酒はアイヌの需要が高いという。

牧畜
赤心社の牧場がある(詳細は「赤心社」の部参照)。33人の村民が馬を所有し、多い人だと1戸で14頭を所有して、共有牧場に放牧している。

木材薪炭
元浦川沿岸ではすでに伐採が進み、樹木は少ない。丘陵部にはナラ・カシワ・ハンノキなどのほか、トドマツが混生している。村内に3カ所の炭焼き窯があり、すべて貸付地である。荻伏国道を経由して出荷され、薪は1敷につき1円20銭、木炭は4貫目(15kg)1俵につき8銭である。

風俗人情
世情は平穏である。アイヌは和人との交流機会が増え、とりわけ漁場の出稼ぎ者などは非常に狡知になっている。浦河郡各村のアイヌはおおむねそんな感じである。

生計
農業に従事している和人には、極端な困窮者はみられない。アイヌは漁場の季節雇用、冬期は野深村の森林作業を請け負ったり、狩猟に従事したりしているが、多くは貧困に陥っている。


1900年ごろの野深村 のぶかむら

地理
南側は元浦川支流アネサラ川を境にして姉茶村と接し、西は山脈を挟んで三石郡歌笛村と隣り合っている。北は元浦川の源流まで、東側は山稜が横たわっている。姉茶村との境界部は原野。その西側をビバウ川、東側を元浦川が流れている。北に向かうにつれ徐々に高度が増す。土壌は肥沃で、湿原は少ないので、だいたいの部分が耕作に適している。「野深」はアイヌ語の元の地名ヌプカ(「野上」の意)に由来する。河岸部にはアカダモ・カシワ・ハンノキ・カツラなどが生えている。山地にはナラ・カシワ・センノキ・■などが生えている。奥地にはトドマツ・エゾマツが多い。

運輸交通
元浦川の両岸にそれぞれ里道が通っているが、どちらも未完成で、元浦川には橋も架かっていないので、横断時は渡渉するしかない。

沿革
イカベッとヌプカに、以前からアイヌが集落をつくって住んでいた。1882(明治15)年、居壁村と姉茶村の一部を野深村に合併した。1892(明治25)年、赤心社がサツメナに牧場を開設した。1894(明治27)年と1895(明治28)年、福井県から多くの人々が入植してきた。

戸口
明治30年現在、戸数81、人口584人。秋田・青森・兵庫・富山などからの入植者が混住している。

農業
貸し付け地の大部分は赤心社に属し、そのほかに、3~4万坪(10~13ha)規模の農家が何軒かある。平均すると1戸あたり5町歩(5ha)だが、14~15町歩(14~15ha)規模の農家もある。貸し付けを受けた土地を新たに開墾するかたわら、別の畑を借りて小作しているケースが多い。赤心社の小作人は15戸。作付品種は荻伏村と同様である。

鉱業
元浦川上流、字ヒトチの支流と支流の間に、カネカルウシと呼ばれる地区がある。ここは寛文年間(1661年~1672年)、砂金採掘が盛んにおこなれた場所と言われる。1891(明治24)年以降、採掘出願者が借区許可を得て探査を続けている。上流部一帯で砂金が採れるそうだが、量は少ないという。

木材薪炭
野深の集落からさらに2里(7.9km)ほど奥に進むとトドマツ・エゾマツが多くなる。浦河村・野深村などの住民が払い下げを受け、アイヌに伐採させている。1897(明治30)年の出荷実績は角材約3000石(540.0m3)。元浦川の国道沿いでは、100石(18.0m3)あたり100円前後で取引されている。貸付地に炭焼き窯が1カ所あって、休みなく稼働している。

風俗人情および生計
福井県からの移民は粗食を我慢して勤勉に農業に取り組み、他県出身者もそれを見習っているようすである。小作者が多く生計は苦しいようだが、困窮者はいない。


1900年ごろの後辺戸村 しりへどむら

地理
西方は、元浦川を境に荻伏村に接している。北側はポロナイ川を境界に姉茶村に、東はエブイ川を境界にして井寒台村に隣接している。南側は海岸で、シリエドという名前の小さな岬がある。シリエドは「山崎」という意味で、村名はこの岬の名前にちなんでいる。岬の先の海面には遠くまで岩礁が連なっている。これら岩礁の中で最大のものにはレプンシラリという名前がついている。このあたりは遠浅なので、船の係留には不向きである。
村の東部は丘陵地形、西部は元浦川氾濫源に含まれて平坦地である。海岸沿いは砂丘が発達したまま元浦川の河口部につながっている。
丘陵の高い位置にはカシワ・ナラ・ハンノキが多く、ササも密生している。海岸にはハマナス・酸味の強いリンゴ(「酢林子」)が多い。
国道は海岸を通過して浦河まで2里(7.9km)である。

沿革
かつてはシリエド岬に、沙流アイヌの出稼ぎ小屋と浦河場所請負人の番屋が建っていた。1875(明治8)年まで、番屋の管理人宅が一軒建っていただけだが、昆布干場の割り渡し事業が始まると、翌年、浦河村から5戸が移住、さらに明治12年から13年にかけて、南部津軽(青森県津軽半島)出身の6戸が入植した。明治15年、野深村と浦河村の一部を合わせて後辺戸村が置かれた。明治23年、丹後(京都府)出身者5戸が入植し、備後(広島県)・越前(福井県)などからの入植者も続いて、人口が増えている。

戸口
1897(明治30)年末現在の戸数は73、人口458人。このうち、アイヌは32戸、154人である。福井県出身者が最も多く、岡山県からの入植者がそれに次いで多い。

集落
海岸部には漁家が11戸、字ヒラキブカから姉茶村にかけての元浦川沿岸には農家40戸あまりが並んでいる。アイヌもこの区間に居住している。

漁業
1897(明治30)年現在のデータは以下のとおり。

昆布採取船 21艘
昆布収穫量 409石 73.8m3
イワシ建網 1統
イワシ漁獲 360石 64.9m3
サケ建網 1統
サケ漁獲 300石 54.1m3
カレイ持符船 3艘

カレイ漁は1891(明治24)年ごろに試験的に操業したものの、漁具・漁法に課題があって失敗した。しばらく中断していたが、1897(明治30)年に再開し、将来に望みを託しているところ。

農業
1890(明治23)年に丹後(京都府)出身者が初めてヒラキブカ地区に入植して以来、年を追うごとに農地が増えている。なかでも荻伏村の三浦吉之助氏・湯沢誠昭氏らが字ポロナイで、それぞれ10万坪(33ha)ずつの貸し付けを受け、数戸の小作を入れて開墾を進めている。
もともと広い地域ではないのに、人々が争うようにして貸し付けを求めた結果、少しの土地の貸し付けも受けられなかった完全小作者が15戸ある。農作物の種類や農法は荻伏村と同じ。
アイヌはわずかに3~4反歩(30~40a)から1~2町歩(1~2ha)を耕作するにとどまっている。
ほとんどの農家が馬を所有し、1戸で10頭を飼育している場合もある。農耕馬として日常的に使役するほか、荻伏村など4村の共同牧場に預けて放牧している。

商業
商店が2軒あるだけで、日用品の買い物は浦河村に頼っている。

生計
(入植者は)いまだ裕福とはいいがたいものの、困窮者はみられない。
アイヌは貧困者が多い。漁業者は板張りの家に住んでいるが、農家は2戸を除き、すべて茅葺き屋根の家屋である。


1900年ごろの井寒台村 いかんたいむら

地理
西はエブイ川を挟んで後辺戸村に接している。北側には山があり、東側の向別村・浦河村とは、向別川によって隔てられている。南は海に面している。
地形にもとづくと、村は3つに区分できる。向別川(西界)とエブイ川(東界)に挟まれていて、それら川の沿岸地域は湿原が多い。村の中央は丘陵が連なった地形をしている。海岸は砂浜で、オホナイからチャシコツまでの間は、渚から70~80間(126~144m)の海中に岩礁が点在しているので、風や波が抑制されて、船を係留しやすい。
エブイ川は北部の山中から南下し、海岸近くで西に折れ、シリエド岬のあたりで海に注いでいるが、風や波が運んでくる砂が堆積しやすく、しばしば河口閉塞を起こし、河口の位置も一定ではない。
丘陵部はナラ・カシワ・カバノキなどが生え、ササが繁茂している。
平野部はアカダモ・ハンノキ・ヤナギなどが多い。海岸部におよそ25~26町歩(25~26ha)のトドマツ林がある。

運輸交通
海岸沿いに国道が開通している。浦河までは1里(3.9km)。国道から分かれて、エブイ川・向別川沿いに北上する道は、雨が降ると膝まで沈むぬかるみになって、通行不能になる。

沿革
かつては、イカンダイに番屋、チャシコツに休憩所が設けられているだけだった。文久年間(1861~1863年)に、福山(広島県)出身の谷藤氏が番屋管理人になり、(和人として)初めて定住するようになった。明治8(1875年)、政府が昆布干場41カ所をアイヌに、13カ所を和人に割り渡すことを決めると、青森・秋田からの出稼ぎ漁民が定住した。
明治15年2月(1882年2月)、浦河村を分割して井寒台村を設置。
井寒台は、アイヌ語の「イカンラニ」(迂回して抜ける坂、の意味)の音が変じて生まれた名前だという。
1887(明治20)年、エブイ川のそばに但馬(兵庫県)出身の大須田氏が移住してきて開墾を始め、翌年には同じ但馬から4戸が入植したものの、エブイ川は流木が大量に堆積して、氾濫すれば農地が泥を被ってしまう恐れがあったため、一部はほかの場所に移り、残った人たちも農業は諦め、炭焼き専業となった。
1893(明治26)年、岩手出身の長嶺将勝氏が開発に着手し、エブイ川の流木を取り除いてスムーズに流れるようにした結果、ようやく水害の心配をせずに農業ができる環境が整った。
明治29~30年(1896~1897年)には福井県・鳥取県から計30戸が入植し、農業者数も増加した。

戸口
1897(明治30)年末現在、戸数は125、人口は518人である。青森県・秋田県出身者が多く、富山・福井・鳥取県出身者がこれに続く。

集落
地形に合わせて集落は3つに分かれている。海岸集落は約30戸からなり、大半が漁業に従事している。エブイ川沿いの集落は60戸あまり、向別川沿いの集落は20戸あまりで、いずれも農業に従事し、それぞれの開墾地に家が散在している。

漁業
1897(明治30)年現在の実績は以下のとおり。

昆布採取船 58艘  
昆布収穫量 1179石 212.7m3
イワシ引網 4統  
イワシ漁獲 706石 127.4m3
カレイ漁川崎船 10艘  
カレイ漁持符船 17艘  
カレイ漁獲 518石 93.4m3
サケ建網 3統  
サケ漁獲 557石 100.5m3
タラ川崎船 9艘  
タラ持符船 1艘  
タラ漁獲 91石 16.4m3
マス建網 1統  
マス漁獲 25石 4.5m3

井寒台村は浦河郡の中で一番の好漁場である。カレイ漁船は半数が越前(福井)・越後(新潟)からの輸入品である。

農業
浦河村の広奥氏は、13万坪(43ha)あまりの土地貸し付けを受け、小作7戸に耕作をさせている。堺清兵衛氏も同様で、小作6戸に耕作させている。これ以外の貸付地面積は3~4万坪(9.9~13.2ha)ずつで、それぞれ1~2戸の小作を入れて開墾している。湿原の排水工事は土地所有者が実施し、小作者には3~4年のうちに開墾するよう命じている。ヤチボウズの除去には特に人手が必要なため、その経費は土地所有者が負担している。小作者の多くは浦河の商社から「仕込み」(生活物資の供給)を受けている。土地所有者はその保証人になるほか、自身が「仕込み」を行なう場合もある。
プラオ・ハロー所有者は14戸に過ぎない。20戸以上は(作付をせず)新たな農地整備の作業にのみ従事している。
作物の種類は荻伏村と同じである。

商業
海岸部の国道沿いに小売店が5軒ある。浦河村から仕入れた米・雑穀・酒・雑貨を売っている。1軒の醸造所では濁り酒を生産し、アイヌに販売している。

牧畜
絵笛牧場は、1890(明治23)年に土地の貸し下しを受けて浦川郡有牧場として設置されたものの、当時の経済事情から(官営は失敗して)、地元の有力者に経営委託されていた。明治26年、いったん土地を返納して郡有をやめ、改めて浦川村・向別村・井寒台村・姉茶村の有力者50人あまりが78万4251坪(261ha)の土地貸し付けを受けて、共有牧場となった。この土地はポンエブイ川をまたいで姉茶村との境界に接している。
1896(明治29)年からは、政府から南部種牡馬1頭の貸し出しを受けて繁殖事業をおこなっている。
1896年から1897年(明治29年から30年)にかけて、牧柵5700間(10.3km)を巡らせる工事を実施。さらに牧草地拡大などの計画がある。基盤整備にともない利用者も増えて、72人にのぼっている。組合員所有馬は200頭あまり、ほかに共有馬8頭がいる。官有馬は冬期の4カ月間は厩舎内で飼育し、エン麦・大豆・乾草を与えている。そのほかの馬は放牧で、管理人が監視している。最も尽力しているのは頭取の長嶺将勝氏である。

木材薪炭
「沿革」でも記したように、最初の入植者の中には、毎年の水害のために満足に農業ができず、炭焼き業に専従する人が多かった。明治31(1899年)現在の炭焼き業者は31戸にのぼる。その多くが一年を通じてその仕事を続けているが、中には農閑期にだけ炭焼きをする人もいる。木炭の原料は貸付地内で伐採した樹木である。木炭1俵あたりの価格は1銭5厘(浦河での売価)。

風俗人情・生計
農民のうち、もっとも初期に入植した兵庫県出身者は、「いつも白米を食べ、酒好きで暴力沙汰を起こしがちので、ほかの地方からの入植者から嫌われている」との説があるいっぽう、富山県・福井県出身者は「雑穀を食べ、勤勉である」と評されている。
富裕者と呼べる人はいないが、極貧者もいない。


1900年ごろの向別村 むこうべつむら

地理
向別川を隔てて西南部で井寒台村と接している。南東は浦河村に隣り合い、北側には丘陵・山岳が広がっている。
向別川は北部の山中が源流で、メナコㇷ゚ルイ川、クンネルペシュペ川などの支流を合わせながら南に向かって流れ、浦河村を通って海に注いでいる。川沿いには平野が広がり、対岸の井寒台村に属する平地とともに、小規模な原野の景観を形成している。この川では時々化石が発見されている。
丘陵地帯はナラ・カシワ・ハンノキなどの混交林で、用材に適した針葉樹を伐採するには、3里(11.8km)ほど奥地に入らなければならない。

運輸交通
1891(明治24)年に村民が総出で1里半(5.9km)の道路を開削して、浦河まで開通させた。

沿革
以前からアイヌの集落があった。1887(明治20)年、青森県出身の柳沢氏が浦河から移住してきて農業を始めた。翌明治21年には福井県大野郡出身の2戸が入植し、1893(明治26)年までに20戸余りが入植した。その後も入植者は増加している。

戸口
1897(明治30)年現在の戸数は103戸、人口は445人である。このうちアイヌは32戸、143人である。福井県・富山県出身者が多い。

農業
浦河在住者の貸付地が多い。なかでも堺清兵衛氏が一人で13万5300坪(44.7ha)の土地を所有している。そのほか、2万~6万坪(6.6~19.8ha)の貸付地所有者が14人いる。開墾に従事しているのは主に小作者で、自作農は少ない。小作者は合わせて39戸である。小作法は荻伏村のやり方と同様である。すでに開墾の済んだ農地1反歩(10a)あたりの小作料は1円。
作物は大豆・小豆が中心で、ほかに野菜も栽培され、浦河に出荷されている。プラオ・ハローを所有している人は6戸だけで、それ以外の農家はレンタルで利用している。
1887(明治20)年から23(1890)年にかけて、アイヌを対象に農業指導事業が行なわれた。各戸平均1町歩(1ha)を開墾したが、同法が4年で廃止されると、農業専従者はいなくなり、漁場へ出稼ぎに出る人ばかりになった。1戸あたりの耕作面積はせいぜい1~2反(10~20a)ほどで、給与を受けたプラオなども売却して、もう持っていない。

牧畜
浦河村の駅逓、堺清兵衛は、字メナプトと字向別で、14万坪(46.3ha)あまりの土地の有償貸付[ 有償貸付]を受けて牧場をつくり、数十頭の馬を放牧している。道産子の駄馬を繁殖させているが、一部に牧柵を巡らせているだけである。
このほかに16人が馬を所有している。各1~2頭から、多い人で8頭を飼育している。官有林地に放牧されている。

木材薪炭
トドマツは集落から1~3里(3.9~11.8km)、五鬚松は4里(15.7km)の奥地にしか生えていない。1897(明治30)年、角材約1000石(180m3)を生産した。薪は浦河方面に出荷され、価格は1敷につき1円20銭。
炭焼き窯が8カ所あって、うち4カ所は専業、残りは農閑期に稼働している。

風俗人情
小作者が多数を占め、地元に土地所有者がほとんどいないので、この地に永住しようという人は少ない。アイヌの風体も非常に悪い。

生計
アイヌは、冬は伐採作業、春は伐木の川流し作業、夏場は漁場への出稼ぎをしていて、貧困すれすれの状態である。和人は、富裕者こそまだ現れてはいないものの、窮乏者はいない。


1900年ごろの浦河村 うらかわむら

地理
西方は向別川を挟んで井寒台村に接している。北西は丘陵によって向別村と隔てられている。東はチキサプ川を挟んで後鞆村と接している。南は海に面している。起伏に富んだ地形で平坦地は少なく、チノミ川・チキサプ川のそれぞれ両岸がわずかに平坦なくらいである。
浦河湾は、東西およそ5町(545m)、南北におよそ3町(327m)と小規模なだけでなく、水深が浅すぎて、港に大型船を進入させたり係留したりできない。港の南東に位置するポンナイノツから先には、4~5町(436~545m)にわたって海中に岩礁が点在しているが、高波を防いでくれるほどではない。

運輸交通
浦河湾は小型汽船であれば2~3艘を係留できるが、大型船は湾外に停泊せざるを得ない。西方、あるいは南方から嵐が近づいてきた時は、襟裳岬の東側か、遠く室蘭港まで避難するしかない。
函館からの海路は105カイリ(194.5km)である。
1897(明治30)年の入港実績は143隻。船舶の出入りが多いのは8月から11月にかけてである。
市街地の中央を国道が通っている。西隣の三石郡姨布駅からは5里16町(21.4km)、東隣の様似郡様似駅までは3里17町(13.6km)の距離である。

沿革
元浦川にあった運上屋が、松前藩時代に浦河に移設されて以来、ここが浦川場所の中心地になった。寛政・文化年間の幕府直轄時代(1789~1821年)には、幕府の役人がここに常駐し、その警護のために南部藩の兵隊も駐屯したので、当時の陣営や砲台場の跡が今も残っている。
開拓使は、最初に函館物産係出張所を浦河に開設し、1872(明治5)年に浦河支庁を設置したものの、明治7年に廃止した。1879(明治12)年7月、郡区役所が設置され、ふたたび日高地方の政務の中心地になった。1882(明治15)年、鱗別村・茅実村・宜保村を合併。明治30(1887)年、浦河支庁を設置。
移住の状況について述べると、文久・慶応(1861~1868年)のころ、「自分稼ぎ」を自称する6人が移り住んだ。このうちの2人は亡くなるまで浦河に住み続け、この地に永住した最初の和人になった。1870(明治3)年、会所の世話人となる金治郎氏を筆頭に、番人として男女44人が移住してきた。以降は毎年戸数が増えて、1875(明治8)年に昆布干場の割り渡し事業が始まると、入植戸数はさらに増加した。小売店などの商売を始める人も現れて、少しずつ町らしくなっていった。
その後は、大規模な入植はみられないが、周辺の村落で開拓が進むにつれ、浦河村は商業地として発展をみせ、現在は日高国の中心地になっている。

戸口
1897(明治30)年末現在の村内戸数は374戸、人口2217人である。最多は新潟県出身者で、青森・富山・秋田・兵庫県出身者がこれに続く。
アイヌは8戸、65人である。

市街と集落
向別川の東側、丘陵のふもとの海岸沿いに浦河村の市街地が形成されている。その広さは東西9~10町(981~1090m)、南北はわずかに1町(109m)に過ぎないが、鱗別沿岸に近いところで少し広くなっている。市街地は、表通り・裏通り・鱗別通りで区画されている。浦河支庁・裁判所・警察署・税務署・郵便電信局・漁業組合事務所・小学校・社寺・灯台・人馬継立所(じんばつぎたてしょ)などがある。戸数はおよそ300。商売を営んでいる家が多く、続いて漁師、ボート業者、大工、農家が多い。小売店は50店舗あまり、古物商8店舗、旅館8軒、配達業2店舗、質屋1店舗、銭湯2店舗、理髪店5店舗、食堂6店舗、貸座敷2店舗、酒造業2店舗、その他がある。
市街地から東に4~5町(436~545m)離れたチノミ川に沿ってチノミ集落がある。18戸のすべてが農家である。
市街地の東、海岸に沿って20町(2180m)あまり離れてチキサプ集落がある。22戸があり、半農半漁の集落である。

漁業
もともと昆布漁が盛んだったが、最近は昆布の出荷量は減少して、カレイ漁が成長している。カレイ漁は、函館の漁業者が主導している。彼らは新潟・富山・石川県出身で、操船技術に長け、改良を重ねた新型漁具・漁網を駆使して水揚げを増やし、利益を上げている。ただ、地元漁民にはそれほどの技術はなく、業績は比較的低い。
1897(明治30)年現在の実績は以下のとおり。

カレイ漁川崎船 25艘  
カレイ持符船 12艘  
カレイ漁獲 1540石 277.8m3
昆布採取船 94艘  
昆布収穫 681石 122.9m3
サケ建網 2統  
サケ巻き網 1統  
サケ漁獲 402石 72.5m3
イワシ建網 2統  
イワシ引網 1統  
イワシ漁獲 369石 66.6m3
タラ川崎船 18艘  
タラ持符船 7艘  
タラ漁獲 245石 44.2m3
サメ川崎船 14艘  
サメ持符船 7艘  
サメ漁獲 158石 28.5m3

農業
文久・慶応の時代(1861~1868年)は、幕府会所が番人や漁夫などを使役して、会所裏手の380坪(12.6a)、幌別村西部の字塘沸(とうふつ)に1万坪(3.3ha)あまりの畑で野菜を栽培し、自給していた。また、自称「自分稼ぎ」の漁師6戸が、ムコベツとチキサプで小規模な畑をつくっていた。1870(明治3)年以降、入植者数は増加しはじめるが、専業農家はなかった。
1879(明治12)年、石川県能登地方出身者が字チノミに入植して初めて農業に着手し、チノミでは現在、18戸が農業を営んでいる。そのほとんどは小作。新墾(新しい農地の造成)には最初の作付まで4年の猶予が与えられ、仕込み(必要物資の供給)は土地所有者が行なっている。小作料は1反(10a)あたり40~50銭。野菜栽培が中心で、浦河市街に出荷している。大豆・小豆がそれに続く。
チキサプにも農家がある。どこも小規模で、馬を使って畑を耕す方法をとっておらず、1戸あたりの耕作面積は多い人でも4~5町歩(4~5ha)に過ぎない。

浦河大小豆改良組合
従来は、農家はそれぞれ生産物を地元の業者に出荷して販売を委託し、業者が函館に輸出していた。ところが近年、入植者が増えるにつれて、生産者の中に悪知恵を働かせる者がいて、粗悪品を混ぜたり、分量をごまかしたりするケースが出てきて、販売価格が急落してしまった。これではいけないと、地元有志が1897(明治30)年、生産物の品質と分量を厳密に保証して函館に出荷したところ、好結果が得られた。隣り合う三石郡と比べて、大豆では1石(180リットル)あたりの価格で平均43銭3厘、小豆では平均63銭3厘の価格差がついた。そこで、浦河郡全村の業者が賛成して組合を結成することになった。まだ設立から間もないので、その成否を判断することはできないが、この先も当初の目的を忘れずに協力体制を維持できれば、大きな成果を期待できる。

商業
1875(明治8)年、酒・雑貨を扱う2~3の商店が開業したが、住民の需要をすべてまかなうことはできず、行商者の供給に頼らざるを得なかった。その後、入植者が増加してくると、行商者の中から当地に通年営業の商店を開く人が現れるようになった。1886(明治19)年、赤心社が商店を開くと、商業環境は一変して、利便性が高まった。1890(明治23)年、赤心社商店の委託販売システムを利用して函館商社の直売が始まり、それ以降は商業者が増え続けて、ついに幌泉(ほろいずみ)をしのぐほどに成長した。
浦河郡内で水揚げされる水産物はほとんどは、いったん浦河に集荷されたあと、函館・名古屋方面などに輸出される。
郡内の需要品は大半が函館からの輸入品だが、大阪・東京などからも仕入れて、浦河経由で各村に配送される。
浦河村からの輸出総額は1897(明治30)年現在で16万円あまり。1/3を大豆が占め、小豆・塩サケ・イワシ搾り粕・長切り昆布・マッチの軸木・葉藍などがこれに続いている。
輸入総額は27万5000円あまり。主な輸入品はコメ・呉服太物・和洋小間物・酒・むしろ・味噌・塩・砂糖・陶磁器・銅鐵(鉄)紙など。
毎年7月から12月まで、つまり水産物・農産物の収穫期間は活発な金融取引があるが、12月中旬から翌春3月までは取引は行なわれず、4月にようやく開きはじめる。通常利率は1カ月2%だが、場合によっては4~5%の場合もある。貸借はおおむね円滑に行なわれている。地元には富裕者がいないので、函館から融資を受けている人が多い。函館に比べて、物価は15~20%ほど割高である。

地価
市街地の表通りの地価(1坪=3.3m3あたり)は、Aランク6円、Bランク4円50銭、Cランク3円。町外れで宅地に向かない場所の地価は45銭と安い。

製造業
酒造業者が4戸。1897(明治30)年の製造量は清酒491石(88.6m3)、濁り酒26石(4.7m3)、焼酎3石9斗(703.6リットル)を生産している。

木材薪炭
チノミ、チキサプ、向別村から薪炭が供給されている。チノミには炭焼き窯が3カ所ある。向別村からは材木も供給されている。
市街地での売買価格は、木炭1俵5貫目(18.8kg)あたり12銭、薪1敷あたり1円20銭、トドマツ製材100石(18m3)あたり100円。

風俗人情
整備段階がすでに一定レベルに達しており、衣食住は足りている。住民は穏やかに暮らしているが、現状に満足しすぎている、と指摘する声もある。

生計
住民は、商業・漁業・農業によって生計を立てている。漁民は、春のカレイ刺し網漁、夏の昆布採取、秋のサケ漁に従事している。困窮している人はいない。

教育
市街に尋常高等小学校がある。1878(明治11)年1月創立。現在の生徒数は177人(高等科50人、尋常科127名)。尋常科にアイヌが5人いる。正教員1人、准教員1人。

衛生
浦河村ほか6カ村の村医が浦河村に駐在している。
市街地では井戸から汲み上げた水を飲料水に用いているが、水質はよくない。

社寺
稲荷神社は1801(享和元)年の成立。保食神(うけもちのかみ)をまつっている。
仏教寺には、真宗大谷派正信寺(1879年成立)と曹洞宗光照寺(1882年成立)がある。このほか、浄土宗・真宗・日蓮宗の説教所がそれぞれ1カ所ずつ、またキリスト教講義所が1カ所ある。

灯台
市街地の北方の高台に灯台がある。1891(明治24)年11月から点灯開始。建物は木造、四角形、白色で、中央に1本、黒いボーダーラインが入っている。海面からの高さは12丈8尺(38.8m)、光線到達距離は6海里(11.1km)。


1900年ごろの後鞆村 しりともむら

地理
フミニウスの小河川を堺に西端を浦河村と接している。北東部はフーレベツを堺に幌別村と接している。北部は丘陵、南側は海に面している。海岸沿いは砂地。海中には岩礁が点在している。
主要樹種はカシワ。ナラとハンノキが次に多い。
「後鞆」のもともとの地名は「シレンルム」といい、アイヌ語で「岬」を意味する言葉「シエリエンルム」を縮めた形である。俗名「シロイズミ」。

運輸交通
海沿いに国道が通っている。浦河村から1里(3.9km)、様似村からは2里(7.9km)あまり。

沿革
かつては番屋と昆布保管施設があるだけだった。明治3年、会所の番人を務めていた谷藤正蔵氏ほか4人が、開拓使から1戸あたり110円/年の補助を受け、家を建てて移住した。彼らは当時「五軒屋」と呼ばれた。1875(明治8)年、昆布干場の割り渡しが始まると同時に、浦河から5戸が入植し、1892~1893年(明治25年~26年)以降、戸数は増えている。

戸口
1897(明治30)年末現在、35戸、191人が居住している。最多は秋田県出身者で、鳥取県、京都府(丹後)、青森県出身者がこれについで多い。旅館が2軒ある。

漁業
明治30年の漁獲実績は以下のとおり。

昆布採取船 46艘  
昆布収穫 817石 147.4m3
サケ建網 1統  
サケ旋網 1頭  
サケ漁獲 195石 35.2m3
サメ釣り川崎船 1艘  
サメ釣り持符船 4艘  
サメ漁獲 15石 2.7m3
カレイ漁川崎船 1艘  
カレイ漁獲 66石 11.9m3

農業
フーレベツ沿岸に肥えた土地があるが、面積は小さく、すべて貸し付け済みであるため、高台に土地を求めて開墾に従事している人が少なくない。専業農家はいずれも自作農であり、耕作面積は3~10町歩(3~10ha)。小作者は、漁業のかたわら1~2町歩(1~2ha)を作付けしているだけである。
作物は大豆・小豆・イナキビ・裸ムギ・バレイショ・野菜類である。プラオ所有者は2人、ハロー所有者は5人。村全体で8戸が合わせて26頭の馬を保有し、西舎村の共同牧場に放牧している。

商業
小売店が3軒あって、米穀・酒、その他の日用雑貨を扱っている。

生計
もともと昆布漁だけで全収入をまかなえていたのだが、近年は不漁で価格も低迷し、昆布漁だけでは生活できなくなってきたため、農業を始める人が増えている。転出者もいる。

教育
浦河尋常小学校後鞆分校が1892(明治25)年にできた。2年制の尋常科と1年制の補習科がある。現在は在校生23人、教員1人。

衛生
結膜炎の症状を抱える住民が多い。西南から吹く強風で砂浜の砂が飛散するのが原因と言われている。


1900年ごろの幌別村 ほろべつむら

地理
西側は、フレベツ川を挟んで後鞆村と隣り合っている。東はウトムアンベツ川によって様似郡鵜苫村(うとまむら)と区切られている。北はトーベツ川を挟んで西舎村、オオホナイ川を境界に杵臼村と、それぞれ隣り合っている。
幌別川は北部から南に向って流れ下り、海岸近くで西に曲がって、海に注ぎ込んでいる。河口の位置は洪水のたびに移動して定まらない。左右の川岸に沼が残されていることからも、河道がたびたび切り替わっていることが分かる。川の両岸はだいたい砂地で地味も肥えているが、ところどころ湿原が広がっている。

運輸交通
幌別川沿いに左右岸とも道が通っている。海岸沿いに国道がある。幌別川には橋がなく、渡し船が使われている。浦河まで2里(7.9km)、様似まで1里半(5.9km)。

沿革
かつて幌別川の岸辺に休憩所があり、渡し守が詰めていた。文久(1861~1863年)のころ、渡し守の神谷文蔵氏が定住を決めた。1871(明治4)年、福井県出身の高島氏と石川県出身の金石氏が入植して農業を始め、1879(明治12)年ごろから入植者数が徐々に増えてきた。当時は富菜村に属していたが、1882(明治15)年2月に富菜村は廃止、幌別村が置かれた。1886(明治19)年、様似郡岡田村からアイヌ17戸が幌別村に移住。1893~1894年(明治26~27年)から入植者数は増大している。

kimpetatuy「農業指導」「土地給与」など、当時の日本政府による、先住民蔵アイヌに対する「勧農」政策は、現在では、内国植民地における先住民族同化政策のひとつとみなされ、批判的に評価されています。「様似郡岡田村からアイヌ17戸が幌別村に移住」とあるのは、事実上の強制移住だった可能性があります。(平田剛士)

戸口
1897(明治30)年現在の人口は76世帯、358人である。福井県出身者が最も多く、続いて富山県・徳島県・石川県出身者が多い。アイヌは15戸、64人である。

農業
幌別村の土地の大半は、浦河村市街地在住者の貸付地である。24~25戸の小作者が、鍬下年期3~4年の条件で耕作している。
大豆・小豆が中心で、5戸が藍を栽培している。
和人28人が馬を所有し、多い人で12頭、ふつうは4~5頭を所有している。アイヌで馬を所有しているのは2人だけで、合わせて9頭である。日常的に使役する馬は舎飼い、その他の馬は西舎村の共同牧場に放牧している。

商業
小売店は2店あり、酒・菓子などを売っている。浦河市街の業者との取引が大半を占める。

風俗人情と衛生
農業専業が多い。炭焼き業との兼業農家が5戸。小作者には貧困世帯が多く、永住の意志はないように見える。
アイヌは農業、漁場雇い、狩猟などに従事していて、食べ物に困るほどの人はいない。板張りの家に住んでいる人は和人で数戸、アイヌで2戸。それ以外の人は茅葺きの家に住んでいる。

教育
1898(明治31)年6月、簡易教育所の設置認可が下りた。教員1人、就学生14人である。


1900年ごろの西舎村 にしちゃむら

地理
西方は山脈を挟んで幌別村に接している。北方は山岳地帯。東側は、幌別川を堺に杵臼村と隣り合っている。
幌別川は、カムイヌプリに源流を持ち、杵臼村との境を南に向かって流れて、幌別村に入っていく。
西舎川・ピパウ川の両河川は、北西部の山地から流れてきて、西舎川は村の中央、ピパウ川は山の麓を通過して、ともに幌別川に合流している。
幌別川は有名な暴れ川で、下流部は堤が低いうえ川床勾配がきついので、大雨が降るたびに激流となって河岸を破壊し、あふれ出して人家に浸水被害を及ぼすことも多い。
地形は2つに区別できる。幌別川・西舎川・ピパウ川の両岸は低地で、土は肥えている。いっぽう、ピパウの丘陵地帯の地味は、前者に比べると非常に悪い。川岸付近にはアカダモ・ヤチダモ・ドロノキ・ハンノキ・ヤナギ・カツラが生えている。高台の丘陵部にはナラ・カシワが多い。

運輸交通
浦河村まで2里(7.9km)の距離。1891(明治24)年に道路が開通したので、通行に支障がなくなった。

沿革
1871(明治4)年5月、政府の移民募集事業に応じて、肥前国(長崎県)彼杵郡(そのぎぐん)から24戸、男女70人余りが、隣村の杵臼村への移民事業応募者たちとともに汽船に乗って到着し、村に入った。3年間分の扶助米・扶助金を頼りに開墾に着手。1873(明治6)年には、家屋営繕事業の適用を受けて、それまでの草葺き家を板葺き家に建て替えたが、移民たちは農業の継続を嫌がり、開拓は進まなかった。政府は特別に各戸に馬1頭ずつを支給したものの、大半の人々はその馬を転売して食費・酒代に変えてしまったという。政府援助が終了すると人々はいっぺんに困窮してしまい、漁場に出稼ぎに出てしのぐ人が続出した。
1875(明治8)年5月の漁場改正に合わせて、(政府は)幌別村と富菜村のサケ漁場2カ所を、西舎村・杵臼村民に移管し、漁具・施設調達費用として、7年後に返済させることを条件に1000円を融資した。ところが経営は失敗し、1885(明治18)年には1700円の負債を抱えたまま、漁場を売却することになった。
幌別川は雨が続くと氾濫して、そのたびに大きな被害をもたらす川だった。政府は1877(明治10)年、一部を援助して堤防建設に着手。完成間近なところを洪水が襲い、つくりかけの堤防は破壊・流失してしまった。さらに1879(明治12)年4月、再び大規模な洪水が起きてほとんど全村民が被災し、ピパウの高台に引っ越す人が続出した。政府は転居者に1戸あたり20円を支給した。
1880(明治13)年8月、飛蝗(大発生したイナゴ・バッタによる食害)が起きた。バッタの大群は十勝国方面から飛来した。被害は甚大で、住民たちは非常に苦しめられた。
これに先だつ1874(明治7)年~1875(明治8)年ごろ、シカ猟が盛んに行なわれた。ほとんどのアイヌがシカ猟を行なっていたので、入植者も同じようにシカ猟に従事するようになっていった。
そのようななか、ひとり尾田忠兵衛氏の一家だけは専業農家として成績を上げ、注目を集めた。1879(明治12)年、開拓使は尾田氏を札幌に旅費つきで招待して表彰した。これでようやくほかの村民にも(農業の重要性が)伝わり、「開墾に力を入れよう」という意識が生まれてきた。
1882(明治15)年2月、塘沸村(とうふつむら)・可礼皆村を合併。この2つの村はもともとアイヌの住む村で、和人の家は2戸しかなかった。
同年には赤心社会員が西舎村に入植し、開墾を始めた。従来の入植者たちもその様子を見て、村内で開拓の気運が一気に高まり、1887(明治20)年以降は村民人口が増加している。

戸口と集落
1897(明治30)年末現在の戸口は104戸、492人である。長崎県から移住してきた人が最も多く、青森県・福井県・広島県・秋田県・岡山県出身者が続く。このうちアイヌは34戸、136人である。
長崎県からの入植者は、はじめ政府が用意した集住家屋に入って集落を形成していたが、水害のために高台に移転した人が多く、現在は散らばって住んでいる。アイヌは村内の2カ所に集落をつくって住んでいる。

農業
現在、主な農業者は、赤心社元社員の塚本新吾氏と、赤心社の小作者として入植した蛎崎清彦氏と、尾田房吉氏である。
塚本氏は、9万5000坪(11.9ha)の付与地と、9万9100坪(32.8ha)の貸付地を所有し、小作5戸を入れている。それ以外の土地所有者は1~2戸の小作者を入れている人が多い。小作との契約は、鍬下4年(開墾完了まで4年間の期限付きで食費・生活費・資材を給与すること)だけ。全村を合わせると、土地所有者は21戸、小作者は35戸である。それぞれプラオ・ハローを所有して、1戸平均8町歩(8ha)に作付けしている。
アイヌは、農業指導を受けたときは3町歩(3ha)を開墾した人もいたそうだが、その後、土地は和人に貸し付けて自分は漁場に出稼ぎに出るようになってしまい、最近の作付面積は1戸あたり5~6反歩(50~60a)から1町歩(1ha)にとどまっている。

牧畜
西舎村・杵臼村・幌別村・後鞆村が、西舎・杵臼両村の北部村境をまたぐかたちで共同牧場を開設している。シュンベツ・メナシ・シュマン・ハツタリ・キビニシチャの貸付地を牧場にしていて、面積は47万坪(156.7ha)あまり。もともとは、荻伏村・井寒台村の共同牧場と同様に、浦河郡の共有金を資本にして創立され、「浦川共同牧場」という名前だった。種牡馬は北海道庁から南部種1頭をレンタル、牝馬9頭は購入してのスタートだった。ところが、地元には従来の自然放牧に慣れ親しんだ人ばかりで利用者はゼロだった。維持管理のめどが立たないまま、1年後の1890(明治23)年には郡庁が監視員派遣を中止し、西舎村など4村共同に移管することになったが、そこでも継続は難しいと判断された。1892(明治25)年、組織を変更し、資本金を集めるため、200株1000円分の出資者を4村で募集した。そのお金を、1896(明治29)年までの5年間、毎年200円ずつの管理費に充てる経営計画を立てた。
しかし、1894(明治27)年までの間に、ヒグマによる食害が相次ぐ。27頭もの仔馬がクマに襲われて死亡した。牧場の株価にも大きな影響が出て、200株のうち60株余りが目減りする悲運に見舞われた。有志の尽力で、1896(明治29)年の満期配当の予定を先延ばしにして、ようやく将来にわたって牧場を維持できるめどをつけた。
現在の保有馬は、アルゼリー雑種4頭と、南部種雑種である。種牡馬として南部乗用種1頭を政府からレンタルしている。3月から4月にかけて牝馬を選び、5月に自由に交尾させている。種牡馬は11月から3月までは舎飼いするほかは、放牧している。
現在の共有馬は41頭。このほか、各農家から計125頭の預託を受けている。まだ繁殖の途中なので仔馬をたくさん売却するところまではいっていないが、生育不良の馬を日高馬市会社の市場に出して売却している。
西舎村住民で馬所有者は和人が52人、アイヌが7人。一戸あたりの所有統数は1~11頭である。

漁業
1897(明治30)年現在、サケ漁の川網が2統ある。サケ漁獲量は35石(6.3m3)。

製造業
1892(明治25)年、マッチ軸木工場が稼働したが、原料不足のため1898(明治31)年春に閉鎖された。濁り酒の醸造者が2軒ある。

鉱業
幌別川と支流域で砂金が採れるため、数人が借区している。実際に砂金採取を行なっているのは1カ所・1名だけである。

木材薪炭
山岳部は針葉樹が混生している。炭焼き小屋が6カ所ある。貸し付け地内で伐採した原料を木炭に加工し、浦河村に出荷している。

風俗人情
長崎県出身者には、長崎方言がまだ抜けない人がいる。質素、平穏な暮らしぶり。

生計
和人は、農業を営んで生計を立て、困窮者はいない。アイヌは、夏は漁場に出稼ぎ、冬は伐木作業に従事しているが、ギリギリの生活ぶりである。

教育
1891(明治24)年、浦川小学校分校が開校し、1897(明治30)年に西舎尋常小学校として独立した。尋常科3年制、補習科2年制。現在は教員1人、就学生24人(うちアイヌ3人)。

衛生
1871(明治4)年、最初に入植したばかりの人たちの間で「水腫病」が流行し、死者4人を出した。その後はこの病気は発生していない。「間歇熱症」の患者が時々いる。飲料水は問題ない。


1900年ごろの杵臼村 きねうすむら

地理
西側は、幌別川を挟んで西舎村と接している。南隣の幌別村との境界はオオホナイ川である。東側は、丘陵地帯を越えると様似郡に出る。
幌別川に沿って細長い平坦地が続いているが、それ以外の部分は丘陵・山脈が連続している。
北東部に位置する山地からは、シュマン川とメナシウンベツ川が流れだし、ニマムで幌別川に合流している。
低地一帯にはアカダモ・ヤチダモ・カツラ・ハンノキ・ドロノキなどが生えている。丘陵部の森林はナラ・カシワ・カバなどからなり、トドマツも混生している。

運輸交通
1895(明治28)年、隣り合う幌別村民と話し合って寄付金を募り、政府から補助金350円を受けて、国道に接続する約2里(7.9km)の道路を開通させたため、交通の便は向上した。幌別川に架かる橋のないことが一番の交通障害である。

沿革
政府は1871(明治4)年、肥後国(ひごのくに、長崎県)天草郡(あまくさぐん)で移民を募集した。それに応じて21世帯、男女合わせて90人余りが入植し、「杵臼村」と名づけられた。当時、政府が支給した扶助金は、西舎村への応募移住民と同様である。
入植後の3年間は、真剣に開墾に当たる人はほとんどいなかった。政府からの支給期間が終わると人々の暮らしはいっぺんに困窮し、シカ猟や、漁場への出稼ぎでしのぐほかなくなった。1875(明治8)年現在の開墾面積は一戸あたり1町5反(1.5ha)に過ぎなかったという。
そのなかで一人、本巣甚三郎氏だけは,入植当初から熱心に開拓に励み、7~8町(7~8ha)の畑に作付けするまでになっていた。開拓使は1879(明治12)年、本巣氏と、隣り合う西舎村の尾田忠兵衛氏の二人を表彰した。これを機にようやく村民たちは鼓舞され、また農作物の販路が開いて、開拓が一歩前進した。
1882(明治15)年2月、原遠村と富菜村の一部を合併。
プラウ・ハローの導入は1886(明治19)年で、1890(明治23)年には一般的に使用されるようになった。
1893(明治26)年、胆振国(いぶりのくに)有珠郡(うすぐん)から、鎌田九兵衛氏が入植し、藍の栽培を始めたところ、好成績が得られた。それによって徐々に入植者数は増加し、1895(明治28)年には徳島県から9世帯が入植した。

戸口と集落
1897(明治30)年現在の戸数は76戸、人口は497人である。熊本県出身者が最多で、福井県・富山県・徳島県出身者がその次に多い。このうちアイヌは30戸、125人である。
1871(明治4)年の入植者たちは、政府支給の集住・板張りの家に住んでいて、まずまずの暮らしぶりである。そのほかの住民は散らばって暮らしている。

農業
貸し付け地の大規模所有者は、現在のところ、本巣熊三郎氏・高尾佐之次氏・鎌田九兵衛氏らで、それぞれ4万坪(13.3ha)あまりずつを所有している。彼ら以外では各2万~3万坪(6.6~9.9ha)の人が多い。村内にはすでに貸し付け可能な耕作適地は残っていない。土地をまったく所有していない小作者は13戸である。開墾ずみの畑の小作料は1反歩(10a)あたり70銭~1円20銭。出荷用の栽培種は大豆・小豆・藍である。藍栽培地では、畑1反(10a)あたり1円前後の魚粕を施肥している。
アイヌは農業指導を受けて以降、耕作を継続しており、1戸は4町歩(4ha)、3~4戸が2町歩(2ha)の土地を所有している。耕作面積は1戸平均1町歩(1ha)である。浦河郡内では、幌別村と並んで、アイヌが熱心に農業に取り組んでいる村といえる。

商業
小売店が4店ある。農作物はおおむね浦河の業者に委託して出荷している。藍は、当初は尾張(愛知県)・越中(富山県)などへ出荷していたが、現在は、特別契約を結んだ名古屋(愛知県)と弘前(青森県)に輸出されている。

鉱業
幌別川支流のアイトネナイ川、エカンウシ川は砂金が採れるため、借区の設定して採取している人がいる。

漁業
幌別川ではサケの引網場が2カ統あるが、漁獲量は多くない。

風俗人情
中には頑固な人もいるが、おおむね実直な人が多い。1887(明治20)年ごろ、不良化防止のために「青年規約」がつくられ、特に賭博を行なった者には厳罰を与える、との決まりが設けられた。いろいろな地方からの入植者が集まって暮らすようになった現在にいたるまで、一人の犯罪者も出していないのは「良風美俗」といえる。

生計
和人は、農業に専念して、たいていの人は勤勉である。また(コメではなく)雑穀を食べるなど節約して暮らしているので、生活には余裕があり、家を増築したり、倉庫を新築したりするなど、西舎村よりレベルが高い。
アイヌは、農業と、漁場への出稼ぎに従事しており、西舎村のアイヌのように困窮している人は、いない。

教育
1889(明治22)年、浦河尋常小学校分校が開校し、その後、1897(明治30)年に杵臼尋常小学校として独立した。尋常科3年生、補習科2年制。現在は教員1名、在校生34人である。