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更新日 2023/02/02

ヤウンモシリ(北海道)の森林鉄道と大学演習林とオニグルミ

上村英明 市民外交センター共同代表、
森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト代表

1.はじめに

本研究チームの目的は、アイヌ民族の土地権や資源権の問題を、この150年の歴史を踏まえて明らかにし、先住権の存在を具体的に明らかにすることである。もちろん、そうした目的をギリギリやることではなく、もっとおおらかな人間関係、信頼関係の中で多面的に織りなしていきたいと考えている。

今回は、文献調査の側面から、最近読んだものを軽くまとめてみたい。

2.ヤウンモシリの森林鉄道

ヤウンモシリには、1900年代~1960年代にかけて、44路線の森林鉄道があったと言われている。伐り出した木材の運送のためだが、廃線が続く一般の鉄道と同じように、道路網の整備とトラック類の利用で、なかなか往時を想像することもできない。

最初の森林鉄道は、王子製紙によって1908年に開通した「苫小牧工場専用線」と三井物産によって同年開通した「三井物産専用鉄道」である。いずれも苫小牧が接続駅だ。製紙会社が開設したものとしては、富士製紙が、1919年に中湧別(なかゆうべつ)と本別(ほんべつ)を接続駅にして、2本の「富士製紙馬鉄」を開通させた。また、王子製紙は、1928年に屈足(くったり)を接続駅に「十勝上川森林鉄道」も建設した。(接続駅は、国鉄など幹線路線上の駅を指す。)

さらに、公設の森林鉄道では、北海道庁の北見営林局が、1919年から測量を開始し、最初の官制森林鉄道である「温根湯(おんねとう)森林鉄道」が1921年留辺蘂(るべしべ)を接続駅に竣工し、木材運搬を開始した。その後、1928年丸瀬布(まるせっぷ)と生田原(いくたわら)を接続駅に「武利(武利意、むりい)森林鉄道」、「上生田原森林軌道」を、同帯広営林局が、1923年陸別(りくべつ)と足寄(あしょろ)を接続駅に「陸別森林鉄道」、「足寄森林鉄道」を開通させた。面白い経営主体では、御料林を管轄する宮内省の帝室林野局が、1928年金山(かなやま)を接続駅に「金山森林鉄道」、1931年一ツ橋を接続駅に「奥名寄(おくなよろ)森林鉄道」、同年恵庭(えにわ)を接続駅に「恵庭森林鉄道」を開設した。また、東京帝国大学農学部が、1921年布部・下金山を接続駅に、「北海道演習林森林軌道」を建設した(河野哲也「北海道の森林鉄道、殖民軌道」『鉄道ピクトリアル』第733号、2003年7月号)。なお、「武利意森林鉄道」で使用された蒸気機関車「雨宮21号」は、遠軽町丸瀬布にある「森林公園いこいの森」で「北海道遺産」として現在も運行されている。

ちなみに、御料林と森林鉄道の関係を少し紹介しておこう。御料林は、1885年に設置された宮内省御料局により管理された皇室財産で、「北海道」では1890年内務省から国有地の森林・原野が移管されたものだが、林業収入はすべて皇室に納入される仕組みである。(内地の御料林は、1889年農商務省管轄の官林から移管された。)宮内省御料局は、1908年には帝室林野管理局、1924年には帝室林野局に改称されたが、1891年~1904年に御料局長を務めたのは、初代北海道庁長官を務めた岩村通俊(1886年~1888年)であった。「北海道」御料林で開設された森林鉄道は、26路線、総延長は452kmに及ぶが、内務省の森林鉄道開発にやや遅れをとった。

御料林内部の境界画定作業があったからで、その作業が1917年に完了すると、1929年から伐木事業が本格実施となった。しかし、それ以前から林業経営は「特売」という形が実施され始めていた。1890年9月には、御料林内のドロノキをマッチ軸木用材として、山田慎という民間人に、毎年3万本10年間の年期特売が許可された。また、1892年12月には、木材10万本をインド向け茶櫃材として、中江篤介他2名に3年間の年期特売を許可している。そして、こうした木材需要に対する搬出方法として、森林鉄道の整備が計画されるようになった(矢部三雄「御料林における森林鉄道の導入要因に関する考察」『林業経済』第71巻第5号、林業経済研究所、2018年)。

1890年に御料林に編入されたヤウンモシリの森林・原野の面積は「200万町歩」(約1,983,000ha=19,830km2)で、全国で3,600,000ha(36,000km2)と言われる御料林全体の55.0%にも及んだとされる。帝室林野局による御料林の経営と森林鉄道の開設は、植民地ヤウンモシリと皇室の関係を伺わせるものだ。

3.ヤウンモシリの森林区分と陸軍軍馬補充部、そして大学演習林

ヤウンモシリの土地は、国有地と民有地に大別して考えることが多いが、細かな分類も、とくに戦前には、可能だ。戦前には、内務省―北海道庁(営林局)による狭義の国有林、宮内省―帝室林野局が管理する御料林、企業や林業家が持つ民有林の他、内務省から移管された大学演習林が設けられていた。先述した東京帝国大学(当時)の「北海道演習林」は、現在の富良野市に1899年という「北海道旧土人保護法」制定と同じ年に置かれ、2021年4月の所管面積は約22,717ha(227km2)で、小樽市の市域にも匹敵する。

また、戦後では、京都大学は、現在、標茶(しべちゃ)町と白糠(しらぬか)町に合計約2,327ha(23km2 )の「北海道研究林」を確保した。「北海道研究林」の設置は1949年だが、「旧陸軍省軍馬補充部」用地を利用したものという点が興味深い。(ちなみに、京都大学は、戦前には台湾<1909年>、朝鮮<1912年>、樺太<1915年>に広大な「外地演習林」を確保していた。)

この点、九州大学の「北海道演習林」は、京都大学のものと似ている。現在の同大学の「北海道演習林」は、足寄町に置かれ、所管面積は約3,713ha(37km2)で、設置は戦後の同じく1949年である。しかし、同大学演習林のHPに掲げられた沿革で興味深いのは、この場所も、1910年「旧陸軍省軍馬補充部」が置かれ、同年池田-陸別間に鉄道が建設され、さらに1923年「森林鉄道稲牛(いなうし)線」が開通したと記録されている。「稲牛線」とは先の森林鉄道の歴史によれば、1923年の「陸別森林鉄道」と「足寄森林鉄道」の開通を意味すると思われるが、「陸軍省軍馬補充部」がヤウンモシリにおけるもうひとつの土地利用を示しているのではないだろうか。(各大学演習林のHPを参照。)

「軍馬補充部」は、1874年に設置された軍馬局が前身で、正式には、日清戦争後の1896年陸軍省の外局としてこの名称に改称された。国内では、全国に8か所の支所が設けられたが、その内の4か所がヤウンモシリにあり、それぞれ内陸部に広大な敷地が確保された。こうした土地が戦後、京都大学や九州大学に移管されたが、同時に、育成された軍馬の移動には、鉄道網が不可欠であった。ちなみに、池田町から仙美里(せんびり)、北見を結ぶ「ふるさと銀河線」(北海道ちほく高原鉄道)が2006年に廃止されたが、この仙美里駅が「軍馬補充部」十勝支所の軍馬積み出し駅であった。十勝支所は、1909年に設置され、19,800ha(198km2)にも及ぶ敷地で、1,000頭を超える軍馬が育成されていたという(河村清明「馬産地の記憶:第6回軍馬補充部という組織」HP

他方、道有林(「北海道有林野」)は、1906年に、財政支援のため内務省から北海道庁に移管された「模範林」と1911年~1922年に同じく財政援助の目的で市町村に譲渡された「公有林」で構成される。これらの森林が、戦後1947年の一般自治体「北海道」の設置によってまとめられたものが「道有林」である。現在、「道有林」は610,000ha(6,100km2)で、「北海道」の土地面積の8%、森林面積の11%で、茨城県とほぼ同じ広さである。ヤウンモシリの土地や森林が、日本の中央や地方政府の財源として搾取されてきたことがよくわかる。

実はこの九州大学のHPにはもう一つの歴史が記録されている。1890年「足寄太(あしょろぶと)に銃台用のオニグルミ採取のために人夫が入った」という記録である。

4.オニグルミと森林資源の収奪

オニグルミ(ネシコ、ニヌムニ)は、アイヌ文化の中ではやや目立たない存在である。主要な植物といえば、ハルニレ(チキサニ)、ヨモギ(ノヤ)だろう。創成神話にも登場し、霊力の強い植物である。その周りにも、シナノキ(ニぺシニ)、キハダ(シケレぺニ)、オンコ(クネニ)、カツラ(ランコ)などたくさんの植物がアイヌ文化を支えている。

しかし、オニグルミも重要である。オニグルミは、ヤウンモシリから九州にまで分布する落葉樹だが、高さ30m、太さ直径1mにも成長する。実は栄養価の高い食用になり、冬の保存食にもなる。樹皮は、黒あるいは濃紺の染料にもなった。また、狼の神、馬の神、蛇の神には、オニグルミで作ったイナウが良いという言い伝えもある。古い遺跡からも堅い材質を活かし、オニグルミで作った器などの工芸品が出土する(手塚薫・出利葉浩司編『アイヌ文化と森』風土デザイン研究所、2018年)。また、葉や樹皮は煎じて駆虫剤、油は皮膚病などの外用薬や、凍らない性質を利用し屋外用灯火にも利用された。但し、オニグルミは、ユグロンという植物育成疎外物質をだして、他の植物を周囲に寄せ付けないため(アレロパシー<他感作用>)、群生を作りやすいとも言われている。この特徴からか、知里幸恵の『アイヌ神謡集』(1923年)によれば、「毒流し漁法」にも使われたらしい。

他方、オニグルミは、和人の視点からは、小銃の銃台/銃床の材料として、重宝されてきた。オニグルミの銃床は銃の発射の反動を吸収し、その一方で形が狂わず、割れることも少ない。それ故、日清戦争が終わった1895年ころからオニグルミの伐採が北海道全体で拡大したと言われ、1890年の足寄太での伐採は試験的だったのかもしれない。その後、1900年代に開発が進み、1905年には、日本の代表的な歩兵銃である三八式歩兵銃が正式採用されるが、その当初の銃床はオニグルミであった。同歩兵銃は、全体で、3,400万丁が生産されたと言われるが、オニグルミの生産が追い付かず、その後サクラなどが銃床材に使用された。ヤウンモシリから持ち出された木材生産物の中には、大木になった膨大なオニグルミがあったのかもしれない。

ヤウンモシリの資源収奪に、オニグルミ-陸軍-大学演習林-森林鉄道が線としてつながるのではないかと考えられた。(2023年1月31日)


参考文献

矢部三雄「御料林における森林鉄道の導入要因に関する考察」『林業経済』第71巻第5号、林業経済研究所、2018年。

松野郷俊弘『北海道の森林鉄道』22世紀アート(Kindle版)、2018年。

手塚薫・出利葉浩司編『アイヌ文化と森』風土デザイン研究所、2018年。

河野哲也「北海道の森林鉄道、殖民軌道」『鉄道ピクトリアル』第733号、2003年7月号。

萩野敏雄『御料林経営の研究-その創成と消滅』日本林業調査会(J-FIC)、2006年。

東京大学北海道演習林:https://www.uf.a.u-tokyo.ac.jp/hokuen/

京都大学北海道研究林:https://fserc.kyoto-u.ac.jp/wp/hokkaido/

九州大学北海道演習林:http://www.forest.kyushu-u.ac.jp/

河村清明「馬産地の記憶:第6回軍馬補充部という組織」:https://enjoy.jbis.or.jp/column/kawamura/2011/004620.html


© Uemura Hideaki