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更新日 2022/07/14

「森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト」の目的、そして期待するもの

上村英明 市民外交センター

このプロジェクトの全体の目的について、お話ししたいと思います。お手元にお配りしたプリントに「森・川・海のアイヌ先住権を可視化する」のタイトルが付いた文章があります。これに従いながら、いくつかポイントを示して、かつ少しつけ加えてお話します。

権利をめぐる歴史と現状を共有したい

今日、この部屋には東京や京都などから来られた人もいますが、その理由は、アイヌ民族が関わる問題は北海道だけでは解決しないからです。これは日本という国の問題だからです。たとえば、アイヌが北海道に交渉に行っても、「それは北海道のレベルでは決められません」「北海道には権限がありません」という言われ方をされることがあります。するともうそれ以上、道のお役人から得られるものはありません。北海道大学なども同じだと思います。遺骨返還などの交渉でも、重要なことは、文部科学省の管轄であって、自分たちだけでは決められない、というわけです。

文科省をはじめ、日本政府の中央機関は東京にあります。先ほど、自己紹介の中で、みなさんからアイヌの権利回復にまつわる、あるいは現場での豊かな体験に基づくいろいろな問題提起を聞きました。でも東京の中央の権力機構は、そうした問題にほとんど関心を持っていません。彼らはむしろ「アイヌ民族の問題なんて、すでに解決済みでしょ」とさえ思っています。ウポポイ(民族共生象徴空間/白老町)ができて、アイヌ文化の普及推進に、ものすごくお金が使われるようになっている。霞ヶ関のお役人の中には、ヘタをすると、「どうしてアイヌ民族にこんなに予算をつけなくちゃいけないの?」「これ、(逆差別的な)特権でしょう?」と、まあ直接そんなふうには言いませんけど、そういうニュアンスで話をする役人たちがいっぱいいます。なぜそうなるかと言えば、アイヌ民族に関して「北海道」で何が起きてきたのか、歴史が共有されていないからです。

もちろん、正直にいえば、「北海道」の中でさえ、多くの人たちにアイヌ民族をめぐる歴史やその結果としての現状は共有されていません。そういう先住民族の歴史とある意味「開拓者」の歴史のアンバランスの中に、中央政府や道庁があり、北大や市町村があって、まともな議論が成り立っていないわけです。

アイヌのサケ、アイヌの森林

そういう根深い構造的な問題を前にしながら、さっぽろ自由学校「遊」の講座の形で、2020年ごろから「カムイチェプ・プロジェクト研究会」と「アイヌ森林問題研究会」で議論が始まりました。ちょうどコロナ禍に見舞われて大変な時期でしたが、悪いことばかりではありませんでした。みんな外出できなくなって、やむなくオンラインでつないでみたら、地方の小さなひとつの講座に、日本中、世界中から参加者が集まった。東京から九州から沖縄から、アメリカからオーストラリアからヨーロッパから、いろんな場所からいろんな人が集まって、いろんな勉強ができるようになりました。

カムイチェプ・プロジェクト研究会では、「サケに対するアイヌの権利」をテーマに、ラポロアイヌネイションの「先住民族の権利としての漁業権を取り戻したい」という訴訟の試みともリンクする形で、議論が交わされました。いっぽうのアイヌ森林問題研究会は、2019年のアイヌ施策推進法が設けた国有林野共用制度[1]がアイヌ民族に権利保障として有効な制度になるのかの問題意識がきっかけでスタートしました。法律の表面では「アイヌが国有林を使えるようにします」と書いてあるのですが、調べてみたら、やはり国が制度を握り、主体はあくまで地方自治体で、アイヌ民族は相談される対象でした。

残念ながら、こんなふうに未解決な問題はたくさんあります。しかも、まさに「施策推進法」の国有林野共用林制度とか、サケの特別採捕の手続き緩和とか、交付金つきの地域計画認定事業制度とかによって、本質的な問題がいっそう見えなくなりつつある。構造の中に埋もれさせられ、しかも何も知らない人には、あたかもアイヌ民族政策が進んでいるように見えてしまう。しかし、国際的な水準からみたら日本は何もしていないに等しい国なわけです。そういうとんでもない状況の中にいながら、アイヌのみなさんの中には「せっかく国もがんばってくれてるから……」となかなか発言しにくい雰囲気もあります。


[1] アイヌ施策推進法
(国有林野における共用林野の設定)
第十六条 農林水産大臣は、国有林野の経営と認定市町村(第十条第四項に規定する事項を記載した認定アイヌ施策推進地域計画を作成した市町村に限る。以下この項において同じ。)の住民の利用とを調整することが土地利用の高度化を図るため必要であると認めるときは、契約により、当該認定市町村の住民又は当該認定市町村内の一定の区域に住所を有する者に対し、これらの者が同条第四項の規定により記載された事項に係る国有林野をアイヌにおいて継承されてきた儀式の実施その他のアイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取に共同して使用する権利を取得させることができる。


UNDRIPを基準にアイヌ政策を見通すと

和人ではありますが、僕が、このプロジェクトの代表として願うことは、いわゆる条件付きではなく、すべてのアイヌが心から「この政策はよかったな」と思えるような政策がほしい、ということです。「これ以上、何を言っても聞いてもらえないだろうから、さしあたってこれでオッケー」みたいにアイヌに思われるような政策は、「本当によい政策」とは言えないでしょう。そういったことをずーっと考えながら、やってきたのが「遊」のふたつの研究会だったと思っています。そして、サケの権利と森の権利に限らず、もう少し範囲を広げて、アイヌ民族の権利実現のために「研究」をやろう、というのが今回のプロジェクトの大きな枠組みです。

私たちの活動の基準のひとつは、「先住民族の権利に関する国際連合宣言(UNDRIP)」(2007年採択)です。日本政府も採択に賛成票を投じて「日本のアイヌ政策の参考にします」と言っていますが、実際には何もしていません。こういう国際基準に、政府寄りの研究者たちは、「内容は日本に適合しない、いわば『絵に描いた餅』」と自ら呼んでいます。だから「日本独自のやり方で前に進む方がいい」と。でも、ごまかされてはいけません。アイヌ文化振興法が作られたのは1997年でした。アイヌ施策推進法が2019年に出来た時に、このアイヌ文化振興法は廃止されました。つまり、アイヌ政策を定めた法律を差し替えるのに22年間かかったのです。先ほど言いましたが、日本政府には、基本的な歴史認識がなく、関心もなく、積極的に学ぼうという姿勢もありません。その構造から推測すれば、私たちが国際基準に従った、きちんとした問題提起をしていななければ、次の改正/差し替えは、やるとしても20〜30年後、あるいは40年後でいいよね、となってしまいかねないと危惧しています。実は、全体としての関心はどんどん薄れていき、さらに長い期間何も変わらないあるいは経済状況に応じていくらでも縮小できる、そういう危険性があります。

「アイヌ施策推進法のおかげで白老にウポポイが完成して、日本中の人が勉強できるようになった」と言いますが、どう考えても理屈が合わない。日本の全人口がウポポイに来るのに何年かかりますか? 来訪者を増やす試みはしているようですが、1回来て勉強できることなんて限られています。アイヌ文化を学ぶことは、アイヌ民族の権利を学ぶことではありません。啓発プログラムをもっとしっかり考えるべきですが、アイヌ施策推進法にはそれがありません。

話を戻すと、UNDRIPのような国際基準に照らせば、アイヌ政策の基本には、「アイヌモシリは元々アイヌ民族の土地だった」という認識が欠かせないと思います。きょう萱野志朗さんがお見えですが、お父さん(故・萱野茂さん)の時代から「アイヌは日本に、土地を売った覚えも貸した覚えもない」という主張が繰り返されてきています。この原点を解決しないと、さまざま問題が何も解決しない。それをしっかり考えていくためにも、ふたつの研究会を合体させる形で今回の「森川海研」を立ち上げました。

だれに、なにを「可視化」するのか

さらに、今日は金子正美先生にも足を運んでいただいており、後ほどお話をいただけると思いますが、「可視化」という言葉が重要なキーワードです。それには、ふたつの意義があると思っています。
いま、アイヌ民族の世代交代がどんどん進んでいる。僕自身は1980年ごろに初めて「北海道」に来て、最初から「アイヌ民族を自分のテーマにしたい」と思っていました。二風谷に行き、萱野茂さんにお会いしました。その萱野茂さんが始められた萱野茂二風谷アイヌ資料館は、いま志朗さんが館長を継がれて、志朗さんの息子さん公裕さんが近くでゲストハウスを経営なさっています。うちの学生もお世話になっているのですが、そういうのを見てきて、世代がどんどん新しく変わっているのを実感します。逆に、古い話になりますが、萱野茂さんとか野村義一さん(元・北海道ウタリ協会理事長)とか、かつて私がお世話になったアイヌのリーダーのみなさんは、率直に言って、怖かった。みずからが厳しい差別を体験されていたせいでしょう、「お前たちシャモ(和人)は……」と、言葉に出さないまでも、私も常に厳しい目線を向けられていました。それぞれの体験はいろいろあったと聞いていますが、厳しい体験を経てこられたアイヌ民族の当時のリーダーの人たちには、怒りが感じられました。しかし、だんだん世代が交替していくと、運営委員の八重樫仁志さんがよくおっしゃる言葉を借りると、「最近のアイヌ民族には怒りが足りない」となるでしょうか。自分たちが不当な目に遭ってきた、「ムカッときた」という感覚が、アイヌ民族のベースからなくなりかけているのではないか、と感じるのです。

そういう時に、たとえば、かつてのリーダーのビデオを見て、理不尽な歴史や怒りを継承する、というのではなく、私たちはそれとは違う新しい形で活動をつながなくてはならないと思います。今回の森川海研プロジェクトは、この「北海道」で、150年間あるいはもっと前までさかのぼって、何が起きてきたのかを事実として確認しようという作業です。それを通して「え? なんでこんな状況なの?」「なんで権利がないの?」とアイヌの若い世代が、このプロジェクトを通じて自ら理不尽さを学べるような場になればいいな、と思っています。

二つめは、私たち和人、世代的に「ここで何が起きたか」に関して、よく分かっていないという現実があります。さきほど、若いお一人から「北海道大学の学生として知っておきたい」という発言がありましたが、「知っておかなくちゃと思う」ということは、「今は知らない」っていうことです。「開拓」初期の入植者(和人)やそれに連なる経験をされた方には、アイヌに対する偏見はたくさんあったと思います。しかし、「何かおかしいことが起きている」ということも、どこかで感じていらしたと思うのです。開拓初期の和人たちが、貧困な内地から入植し、大変な苦労をしたという記録を私もたくさん読みました。しかし、内地あるいは出身地では決して得られない広い面積の土地を、なんで「北海道」に来たらもらえるのか——? とか、よく考えるとヘンだよな、ということに気づいていたはずです。ところが現代の世代、日本から「北海道」に来る人たちは、新千歳空港に降り立つと、「牧場が広がっていて、北海道らしくて素晴らしい」みたいな感想を持ちます。ヤウンモシリ(「北海道」)は、僕の認識では、本来「森の国」です。その森林をめちゃくちゃ伐採して、広大な畑や牧場を作りました。牧場に牛や馬がいると「自然豊か」に見えるかもしれませんが、それは和人が自然を改変してつくった風景にほかなりません。「北海道」は本来どんな風景だったのか、現にここに住んでいるあるいは訪問する和人にも分かっていない。ここで実際に何がどんなふうに起きて、いまどんな状態にあるのかを、明らかにすることは和人にとっても大事なことです。

和解のプロセスをスタートさせたい

さらにその先の目的を言いますと、たとえば、すでにラポロアイヌネイションが先住権としての漁業権を求めて裁判に訴えています。また、共用林制度の利用は、よりよい制度があるということで、平取町で否定されました。まだまだ問題が山積みの中、政府に対する新しい形の闘いをどこかで始めなければならないと思っています。「これはちょっと共有できないよ」という方がおられるかもしれません……。いずれにしても、日本政府と、話し合いを含めて、いろいろな形で闘っていくとき、土台にすべきなのはやっぱり「事実」なのです。どんな事実があったのかをベースにして闘っていかないと、ネトウヨがいっぱいいるような日本社会で、残念ながら、言論だけで世論を説得するのはなかなか難しい。事実を確認し、データをしっかり集めることは、将来的には、アイヌ民族がそれを土台に次のステップに前進する道を開いてくれます。

このプロセスを、国際基準でいうと広く「和解」と呼びます。私は和人なのでこの言葉を使いづらい面もありますが、アメリカ・カナダ・オーストラリアなどでも、先住民族は「入植者は出ていけ」とまではなかなか言えません。その代わり「(入植者は)自分たち(先住民族)の権利を平等に尊重しろ」と要求しています。

僕は台湾からの引き揚げ者の家系です。台湾に入植していた日本人は、第二次世界大戦が終わった後、歴史的な侵略と植民地主義の責任をとって、全員が日本への引き揚げを命じられました。僕個人は、これが植民地主義による被害を救済するときの原則だと思っています。暴力でもって入ってきた人たちは、その責任を取らなければいけない。私の家族が、引き揚げで体験したことは、決して不当ではなかったと思っています。

しかし、なかなか「北海道」入植者の島外退去を含む議論を整理できないとすれば、入植者と先住民族の歴史を共有し、お互いの権利を公正に認めながら、これからどう共存していくのかを話し合う「和解のプロセス」をたどる必要があると思います。

もちろん、公正に認めると述べた理由は、現状では先住民族と入植者の間にものすごい力の差があるわけです。和人は人数が多いし、お金もあれば、地位もあれば、職もある。そんな和人たちに囲まれた中で、「アイヌ民族にはこんな権利がある」「なのに今、こんな不当な状況に置かれている」と説明していくにも、事実の確認が欠かせません。

20〜30年前の私だったら、デジタル地図に情報をプロットする「可視化」のお話には、たぶん「ほお」と思うだけだったことでしょう(笑)。しかし、新しい時代には新しい社会運動を組織していく必要性を感じています。見回すと、この中で一番カルいのが僕のようです。重たく難しい仕事は苦手です。その点、このグループで何か問題が起きたら、私が矢面に立ちます(笑)。ですから、安心して自由にそして対等に議論し、活動して、みなさんがベストだと思うことを積み重ね、つないで行くことができればと思います。みなさまには、略して森川海研の活動をよろしくお願いします。


2022年7月3日、さっぽろ自由学校「遊」で開いたプロジェクト・キックオフ・ミーティングにおけるスピーチから。