日本政府によるアイヌ強制移住
1875年、サハリン島→北海道島
1884年、シュムシュ島→シコタン島
1875(明治8)年、ロシア政府と日本政府との間で国境交渉が妥結して、両国は樺太・千島交換条約(サンクト・ペテルブルグ条約)を結びました。サハリン島(カラフト島/樺太島)全島はロシア領、クリル諸島(千島列島)全18島は日本領と決まり、サハリン島と北海道島に挟まれた宗谷海峡(ラ・ペルーズ海峡)と、カムチャツカ半島南端ロパトカ岬と占守(シュムシュ)島の間の海峡に新しい国境を設けることになりました。国家間の取り決めにもとづく目に見えないラインによって、住民にとってそれまで一体だった生活圏が分断されることになったのです。このとき、日本政府は、ラインの「向こう側」に住む大勢を、強引に「こちら側」に引き込む政策をとりました。
高校生むけの副読本『いま学ぶアイヌ民族の歴史』(2018年、山川出版社)には、次のように解説されています。
樺太千島交換条約
1854(安政元)年、「日露和親条約」が締結され、択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島間をロシアとの国境線とし、樺太島(サハリン)は従来通り両国民の雑居地となった。その後、ロシア兵による数度にわたる鰊(にしん)漁場・アイヌ墓地の破壊などが発生し、現地で両国間の紛争が頻発していた。そこで、明治新政府は樺太島を開拓使から分離し、黒田清隆を専任として「樺太開拓使」を設置した。1870(明治3)年、黒田は現地視察に赴き、その調査報告のなかで、ロシアの脅威を強く主張する。しかし、現実的に樺太島の開拓は困難であるとし、政府は「樺太開拓使」の廃止を決め、反面で北海道開拓に全力を尽くす方針とした。1874(明治7)年、その方針を交渉するため、政府は旧幕臣榎本武揚を首都サンクト・ペテルブルクへ派遣し、1875(明治8)年5月、樺太・千島交換条約が締結される。このことによって、カラフト島をロシア領とし、千島全島を日本領とすることになった。条約締結とアイヌ民族
日本政府は1875(明治8)年8月、樺太島と千島全島の先住民族の取り扱いについて協議し、移動については住民の自由意志により、3年間以内に判断し、選択した国の国籍が取得できることが決定された。ところが、翌月、政策は一転し、日本政府は樺太島に住むアイヌ民族を強制的に北海道内に移住させることとした。その月中に、約100戸(約850余人)が一旦宗谷に移され、翌1876(明治9)年には札幌郡対雁(ついしかり)村(江別市)への移住が強制的に行われた。当初、開拓使は移住民に移住費用、食料、宅地及び耕地、さらには石狩方面での漁場などを給与したが、その給与期限が過ぎると多くのアイヌはその場から離れていった。過酷な生活状況が容易に推測できる。残ったアイヌ民族も、コレラと天然痘の流行で300人以上が死亡した。日露戦争後、ポーツマス条約によって南樺太が日本領となった時、そのほとんどが故郷である樺太に帰っていった。一方、日本領となった得撫島から占守(しゅむしゅ)島までの千島列島の住民は、ロシア正教の信者が多く、ロシア風の氏名を名乗るなど、ロシア文化の影響を強く受けていた。そこで、政府は「ロシア化」を防ぐため、特に占守島の住民をすべて1884(明治17)年に色丹(しこたん)島に強制移住させた。その数は約100人であった。この時、日本政府は戻らぬようにと、彼らの家屋を焼き払った。色丹島に移された彼らは、アザラシを常食しており、与えられた漁場の悪さなど、急激な環境の変化によって、実に1889(明治22)年には66人に減少した。
1875(明治8)年から翌年にかけて、サハリン/カラフト島のどの地域から、それぞれ何人が住み慣れた土地から引き離され、北海道のどの場所に連れて行かれたのか——。当時の記録を丹念に調べて執筆された労作『対雁(ついしかり)の碑 樺太アイヌ強制移住の歴史』(樺太アイヌ史研究会編、北海道出版企画センター、1992年)などに依拠して、上の地図をつくりました。
先住民族の権利に関する国際連合宣言(2007年)は、その第10条でこう明言しています。
第10条 強制移住の禁止
先住民族は、自らの土地または領域から強制的に移動させられない。関係する先住民族の自由で事前の情報に基づく合意なしに、また正当で公正な補償に関する合意、そして可能な場合は、帰還の選択肢のある合意の後でなければ、いかなる転住も行われない。
また、第36条にはこう書いてあります。
第36条 国境を越える権利
1 先住民族、特に国境によって分断されている先住民族は、スピリチュアル(霊的、超自然的)、文化的、政治的、経済的および社会的な目的のための活動を含めて、国境を越えて他の民族だけでなく自民族の構成員との接触、関係および協力を維持しかつ発展させる権利を有する。
2 国家は、先住民族と協議および協力して、この権利の行使を助長し、この権利の実施を確保するための効果的な措置をとる。
2020年代のいま、地球表面を仮想的に区画しているに過ぎない「国境の壁」が、ますます高く、頑固になりつつあるように思えます。それが先住民族の固有の権利を長らく阻害し続けているということを、私たちはもっと自覚すべきだと思います。(平田剛士)