HOME / エッセイ&リポート

更新日 2022/09/23

1643年の干しサケ

吉田浩正 ジャーナリスト

先住権としてサケ捕獲を認めるよう訴えているラポロネイションのアシリチェプノミ(新しいサケを迎える儀式)が行われた十勝太(とかちぶと)のことはずっと気になっていた。地名を聞いたり通り過ぎたりしただけで、過去の記憶や声が風景のなかに埋もれているように感じる土地のひとつだからだ。

山田秀三の『北海道の地名』(北海道新聞社、1984年)は十勝太について、「十勝川は下流で二つに分かれている。その東側の川口の処の地名。トカッチ・プトゥ(tokapchi-putu 十勝川・の河口)の意。今はこの東側の川を浦幌十勝川と呼び、西側の川の方が本流扱いされるが、元来はこの東側の方が本流とされていたのだった」と説明している。

十勝川は1960年代に洪水対策のために改修されて、大津川(おおつがわ)と呼ばれていた西側が河口となった。浦幌十勝川(うらほろとかちがわ)となったかつての本流はいま堤防と水門に囲まれ、「開拓の時代」が終わったことを静かに物語っているように見える。

2022年9月11日、吉田浩正撮影

浦幌十勝川堤防からみた河口と海岸。2022年9月11日、吉田浩正撮影。

まわりには戦争や絶え間ない技術革新の波に洗われた名残もある。近くの浜には太平洋戦争中、米軍の上陸に備えて築かれたトーチカが朽ちて残り、高台には戦後、GPSが普及するまで「電波の灯台」ロランC局の高さ約200メートルの送信塔が立っていた。

いまは目に見えない古い暮らしの記憶もある。17世紀半ばに十勝川河口近くに停泊したオランダの探検船がアイヌと出会ったことを記録した航海日誌だ。

1643(寛永20)年、三代将軍・家光の時代。最初の鎖国令が出てから10年後、蝦夷地では千軒金山などの隠れキリシタン106人が処刑され、松前藩の交易船が厚岸に航路を開いて間もないころだった。当時、いまの北海道北東部から千島、サハリン海域は最後に残った地理的な空白地帯だった。長崎の出島に商館を設けていたオランダは未知の地域での権益拡大と日本の東にあるとされていた金銀島の探索を目ざして、フリース(Maerten Gerritsz. de Vries、1589-1647)を司令官とする探検船「カストクリム号」を派遣した。オランダ東インド会社の本拠地・バタビア(いまのジャカルタ)を出帆したフリースは濃霧に悩まされながら北の海域を調査し、世界で初めてこの地域の実測沿岸地図をつくった。フリースの名は、択捉ーウルップ間の「フリース海峡」(日本では択捉水道・択捉海峡)として残っている。

航海の途中、十勝や厚岸(あっけし)、歯舞(はぼまい)群島、国後島(くなしりとう)、サハリンなど各地で出会ったアイヌについての記録も残した。根室に住みオホーツク文化やアイヌ文化を研究した考古学者・北構保男(きたかまえ・やすお)さん(1918-2020)がアイヌに関連した部分を中心に航海日誌を訳して『一六四三年 アイヌ社会探訪記』(雄山閣、1983年)として出版している。

同書によると、フリースが最初にアイヌと出会ったのはバタビアを出帆してから3カ月あまり後の6月9日午後、十勝川河口近くに停泊していたときだった。

「一少年を連れた二人の男(ともにアイヌ人)が舟で訪れたが、二枚の鹿皮と若干の乾した鮭をもっており、またそれぞれ弓矢と刀剣を携えていた。本船にのぼるとタンパコと言って煙草を求めたが、他の言葉はわからなかった。彼らは塩を使っていない燻製の鮭と、鹿の皮一枚を司令官に贈ったが、アラック酒と煙草でもてなされて、たいへん喜んだ」

「腰部には小刀を下げているが、その柄は銀で飾られている。刀の薄金は日本風であるが、やはり銀がみられた。これは、彼らが金と銀を知っている事実を物語っている。その矢はたいへん精巧に製られ、あるものには毒が塗りつけてあった。彼らは北西を指して、自分たちはそこに棲み、そしてそこはタカプチ(十勝)と言い(略)」

「彼らは、煙草とアラック酒でもてなされた後、機嫌よく陸地に帰って行った。その舟は、船首と船尾が平坦で、幅の狭い櫂で漕ぐのである」(同書p40-41)

アイヌの一行が去った後、吹きだした南西の風に乗ってカストクリム号は移動したので十勝アイヌとの出会いはこれだけだが、上陸した国後島やサハリン、厚岸(あっけし)のアイヌについてはより詳しい記録を残している。

厚岸では、ノイアサックと呼ばれる「最高権力者」の家で「若干の調理した鮭」をふるまわれたことや、山の上に四方を人の丈の1.5倍の高さの柵で囲み二隅に見張り台を設け、柵のなかに2、3軒の家がある「とりで」(チャシ)が構築されていることなどが書かれている。

初めて見るオランダ船に臆せず乗船し、干し鮭と鹿皮を贈り、煙草と酒をもてなされて機嫌よく帰って行くなど、フリースが残した記録からは、当時のアイヌが自由にシカを狩りサケを獲り見知らぬ他者とも屈託なく交流していたことがうかがえる。

そうした出会いから379年になるこの9月11日、よく晴れた日曜、ラポロネイションのアシリチェプノミが行われた。会場は、かつて本流だった浦幌十勝川の河口から1キロも離れていない、新川という小さな支流のそば。川に近いところにイナウ(木幣)が並び、干潮で浅くなった川には側面にアイヌ文様が彫られた丸木舟が浮かび、そのそばをサケが泳いでいた。

会場横の浦幌十勝川の堤防に上がると、はるか西に日高の山脈が青く連なっていた。浦幌十勝川は海岸線に沿うように大きく湾曲して北東に流れて数百メートル先でほぼ直角に右に曲がって海に向かう。河口は草むらに隠れて見えないが、近くの浜には立ち並ぶサケ釣りの竿と釣り人の車の列があった。

しばらくして始まったサケを迎える儀式は公開されたので、部外者も少し離れたところから見学することができた。炉のまわりに男性9人が座り、その外に女性3人が椅子に腰掛けた。サケはこの日の朝、伝統儀式などに限って認められる特別採捕の制度によって丸木舟で捕獲したという。

2022年9月11日、吉田浩正撮影

ラポロアイヌネイションのアシリチェプノミ。2022年9月11日、吉田浩正撮影。

聞くと、ラポロネイションのアシリチェプノミは今年で3回目だそうだ。明治に川でのサケ漁が禁止されて途絶えたアシリチェップノミが、カムバックサーモン運動でサケが戻り始めた札幌の豊平川河畔で復活したのが40年前の1982(昭和57)年。その後、各地で行われるようになった。

十勝太とほかの地域のアシリチェプノミに違いがあるとすれば、ラポロネイションが浦幌十勝川でのサケ漁を先住権として求めていることだろう。豊平川でアシリチェプノミが再興された当初は川での捕獲が認められず、海で獲ったサケを使っていたが、1987(昭和62)年に特別採捕として川で捕獲できるようになった。これを足がかりに少しずつ捕獲数を増やしていずれは漁業権を得ることを目ざす考えは以前からあったが、実際に裁判に訴えたのは初めてだ。

4世紀前、オランダの探検船の司令官に干しサケを贈ったアイヌが、いまの十勝太の状況を知ったらどう思うだろうか? 河川改修や農地化で様変わりした土地や、サケ釣りの竿が並ぶ浜、沖に向かって定置網がいくつも設置された海の様子に驚くのは間違いない。しかし、何より衝撃を受けるのは、川でサケ漁ができず、復活するために裁判をしていることではないだろうか。

本州でもアイヌと同じように古くからサケを糧としてきた人たちがいる。かつての十勝アイヌの目を借りると、本州では江戸時代からの伝統として川でのサケ漁が行われているところがあるのに北海道にはないことがあらためて気になってくる。

なぜそうなったのか、これからどうしたらいいのか、さまざまな考え方があるだろう。しかし、手持ちの考えで決めつけることはしないほうがいい。風景のなかに忘れられた言葉を思い起こすように続くアシリチェプノミを見ながら、そんなことを思った。


© Yoshida Kosei