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更新日 2023/05/18

1899年の幌泉郡

kimpetatuy北海道廳殖民部『北海道殖民状況報文 日高國』(1899)から、幌泉郡のパート(p204〜p226)を、現代文に書きくだしてご紹介します。〈〉内は原文の引用(漢字は常用漢字に置き換えている場合があります)、()内は難読漢字のよみ、現代語訳者の補足、説明など。コラム記事は現代語訳者のコメントです。この現代語訳作業は進行中のプロジェクトであり、誤訳・誤字・脱字のあることをご了承ください。発見次第、お知らせなしに修正しています。(平田剛士)

1899年の幌泉郡 ほろいずみぐん

地理
幌泉郡は、日高国(ひだかのくに)のいちばん東側に位置している。西部は様似郡(さまにぐん)、北部で十勝国(とかちのくに)広尾郡(ひろおぐん)と、それぞれ隣り合っている。郡は不等辺三角形をしていて、南側は海に突き出している。東西方向の距離は5里20町(21.8km)、南北の長さは7里11町(28.7km)、面積は17方里(262.2km2)あまりである。海岸線の長さは15里26町(61.8km)におよぶ。郡の中央部は隆起して、トヨニヌプリ、オキシカヌプリ、トプシオロヌプリといった山々が並んでいる。隆起部分の東側は、一部で海岸沿いに断崖地形を形成している。南側の山裾は、丘陵・高原地形のまま襟裳岬(えりもみさき)の先端まで伸びていて、海に沈んだ付近には危険な岩礁や奇怪な形をした岩が波間に点々と見えている。海中には暗礁が隠れている。

郡の北部からアベヤキ川とオタペツ川が流れ出して、いずれも南の方向に進んで海に注いでいる。また、北部・郡境近くの山中に源流を持つ猿留川(さるるがわ)は、いくつかの渓流を合流させながら東の方向に流れて、猿留村(さるるむら)で海に到達する。このほか、小規模な河川がたくさんある。

トヨニヌプリの東北側の山腹にトヨニ沼がある。トヨニ沼のアウトレットは猿留川につながっている。また百人浜に小さなふたつの沼がある。

郡北部は山岳地帯である。南部は高原地形で、農業に適したフラットな土地は、猿留川やアペヤキ川の河岸部に少しだけしかない。

海岸はおおむね「海成段丘」地形で、その足下に砂浜が形成され、ところどころに岩浜がみられる。とりわけ油駒村(あぶらこまむら)から襟裳岬突端部までの区間、庶野村(しょやむら)から猿留村までの区間の海岸線は、完全に険しくて近寄りがたい岩場・絶壁である。

歌別(うたべつ)山以北の地域では、ミズナラ・カシワ・シナノキ・ハリギリ・カンバ類・トドマツなどが見られる。しかし、歌別山から東南方面、海岸まで2里(7.9km)あまりの地域は全面的に裸地化していて、注目すべき樹種はない。かろうじて風の弱い場所の沢沿いや川沿いなどに、高さ10cmほどの小型の植物や高さ30cmほどのカシワ類がみられるだけである。これほどまったく樹木の生えていない環境は、ほかに例がない。歌別山から北側ではいたるところでササが繁茂しているし、冬でも雪が積もることは滅多にないので、牛や馬の放牧地に適している。

襟裳灯台の観測に基づく気象状況を「前編」で述べた。歌別山より東側の地域では、夏の間は南東寄りの風に吹かれて濃霧がひんぱんに発生する。山の西側では少しずつ霧は薄れていく。3月から4月にかけて、南東からの風が吹く日が続くと、小越村(おこしむら)・庶野村・猿留村の海岸で流氷がみられることがあるが、ほとんどは着岸せずに流れてゆき、襟裳岬の突端部を越えたところで暖流の余波とぶつかって、溶けてしまう。たまに溶け残った海氷が幌泉村の西方まで流れていくこともある。

幌泉湾は、浦河湾と同じように、湾のサイズが小さいので、大型船を停泊させることができない。にもかかわらず、海産物がたくさん獲れるので、函館との間を船がさかんに行き来している。油駒村・小越村・庶野村にもときおり汽船や帆船がやってきて、貨物輸送の利便性は高い。

1878(明治11)年、庶野村の海岸沿いに国道を敷設。また1891(明治24)年から1892(明治25)年にかけて、政府が2万5000円あまりを投じて幌泉村ー猿留村ー広尾村の道路改修工事に着手したが、まだところどころ完工していない。現時点では、様似郡方面から海岸沿いに幌泉村まで来たら、オタペツ川沿いに山道に入り、字追分(あざおいわけ)の旧道の分岐点で道を折れて庶野村に向かい、山道あるいは海岸道のどちらかを進んで猿留村に入り、十勝国茂寄村(もよろむら)に到着する、というルートをたどるしかない。交通の便はとても悪い。

幌泉郡は9つの村に分かれている。
近呼村(ちかよっぷむら)、笛舞村(ふえまっぷむら)、幌泉村(ほろいずみむら)、歌別村(うたべつむら)、歌露村(うたろむら)、油駒村(あぶらこまむら)の6つの村は、郡の北西部から南東の襟裳岬に向かって順に並んでいる。小越村(おこしむら)は襟裳岬の東側に位置し、その北側に「百人浜」を挟んで庶野村(しょやむら)がある。猿留村(さるるむら)は猿留川沿いに位置して、十勝国と境界を接している。襟裳岬で東西を分けて、俗に西側を「内浜」、東側を「外浜」と呼ぶ。

沿革
昔は、西隣の様似郡とひとまとめに「油駒場所」と呼ばれ、松前藩士・蠣崎蔵人の「給地」だった。1798(寛政10)年、幕府官吏の近藤守重が、番人(=和人)にアイヌたちを使役させて、ピタタヌンケプから広尾村までの間の山道を開通させた。その翌年の1799(寛政11)年、幕府官吏の中村意積たちが「猿留山道」を建設した。同じ1799(寛政11)年、この地域が幕府直轄地に変わり、初めて「幌泉場所」が設定された。
1812(文化9)年、嶋屋佐治兵衛が幌泉場所の場所請負人になった。(1799年に幕府が直轄化する)以前の松前藩執政時代は、栖原屋半次郎が広尾場所(後の十勝場所)と油駒場所の両方の請負人を兼務していたが、幌泉エリアの周辺にはアイヌが少なく、(労働力不足で)満足に漁業ができない。そこで毎年、広尾場所で働いているアイヌたちを庶野浜に連れてきて「入り稼ぎ」させていた。幌泉方面(庶野浜)で水揚げした水産物をすべて広尾場所に出荷し、広尾場所の管理下にあるアイヌたち30人を無償で庶野浜にレンタルしていたのである。だが、幌泉場所の請負人が栖原屋から嶋屋に交替した時、この方法をめぐって両場所の間でトラブルが持ち上がったことは、「前編/沿革」のページに記述した通りである。

幌泉場所の請負人は、1819(文政2)年に高田屋金兵衛、さらに福島屋嘉七へと交替していった。文化年間(1804~1814年)の初めごろに和人の移入労働者が数十人に達し、安政年間(1854~1859年)にはもっと増えた。

1869(明治2)年9月(旧暦)、場所請負制を廃止。箱館産物係の出張所が設置されて漁業経営を担当した。1872(明治5)年、開拓使は南部藩・津軽藩・秋田藩から合わせて300世帯の移民を募集し、それまで「一艘浜」だった昆布干場を半分にして移民世帯に割り渡し、等級に分類して納税を求めた。同じ1872(明治5)年、産物係出張所を廃止し、代わって福島屋嘉七が「御用達」になった。ラッキーなことにこの年は昆布が豊作で、上等浜1艘あたり500石(90.2m3)の収穫があったのだが、移民たちはいきなり好景気を迎えたものだから、貯金もせずに飲み食いでお金を使い果たしてしまった。翌シーズン以降は豊作とはならずに人々はお金に困るようになり、納税の負担に耐えきれず「脱籍」する人がたくさん出てしまった。

そこで開拓使は漁業資本金の貸付事業を実施した。またこの当時、福島屋嘉七氏が郡内の住民に融資した金額は合わせて3万円以上に達していた。福島屋加七氏は1875(明治8)年、それぞれの借用書を「年賦返納証書」に書き換えさせ、当地から函館方面に転出していった。1876(明治9)年、開拓使は「奨励保護」名目の特別措置として、1870(明治3)年以来の幌泉郡住民たちに対する貸付金総額2万2000円あまりを各自に「付与」することとし、未納の税金あわせて6000円あまりについても、6年間の分割納付を認めることにした。

同じころ、数人の住民たちが計画を練って「四方店」という名前の商店を設立し、地元の生産物をすべて買い取って転売するビジネスを開始したものの、わずか1年ほどで廃業した。

1877(明治10)年以降は人口が少しずつ増え、廣業商会の資本投入によって出荷金額が増大した。とりわけ1880(明治13)年はとりわけ豊漁に恵まれて非常な好景気に沸いた。ところがさほど経たないうちに弊害が出て、1882(明治15)年、廣業商会の経営悪化にともない地方経済も不振に陥った。

同じ1882(明治15)年5月、乗組員のほか、800人以上の中国人を乗せたアメリカ船メアタサン号が航海中に嵐に遭遇して襟裳岬で座礁してしまった。乗客たちはわれさきにと脱出して上陸してきたが、ホテルなどはないので、壊れた船体の修理が済むまでの間、民家で宿泊させることになった。この時は合計およそ1万5000円(の援助金=公金)が郡内で使用され、住民たちを喜ばせた。

kimpetatuy実際には、事故が起きたのは1882年4月10日未明。また「アメリカ船」ではなく、イギリス・ロンドンの商人が運用するMary Tatham(メリー・タサム)号。ホンコンで清国人740人を乗せ、長崎経由でアメリカ・ポートランドに向かう途上だった。乗客たちは鉄道建設の現場労働者としてアメリカに向かう広東地方出身者だった。避難・上陸した乗客たちは代船「明治丸」の到着を待ち、6月1日に襟裳を離れた。いっぽう難破船は修理が試みられたが、曳航に失敗して沈没。巻き添えで船員や作業員らが落命した。
山田伸一「一八八二年四月、襟裳岬近くで座礁した英国船」参照

1885(明治18)年、岩村(通俊)司法大輔が北海道を視察し、幌泉郡の振興策として幌泉裁判所を設置した。1889(明治22)年、「日本昆布会社」が発足し、貸付金によって非常な活況を呈した。しかし3年後、同社と出資者との間で紛争が起き、1894(明治27)年には貸出が停止されてしまう。さらに日清戦争の大きな影響を受けて、昆布漁業は立ち直れないくらいの不振を極めたが、代わってカレイの手繰り網漁が業績を伸ばして始め、それ以降は好景気が戻ってきた。

幌泉郡内の 1897(明治30)年末の人口は、570世帯、3258人である。

重要産物
幌泉郡は水産物が非常に多くて、昔からその名をよく知られてきた。近年はとりわけカレイ漁が著しく発達して、重要産物になっている。1897(明治30)年の水産物の生産量は次のとおり。

カレイ絞り粕 8564石(1544.9m3
昆布 9864石(1779.5m3
塩サケ 1714石(309.2m3
サケ筋子 6540貫(24525kg)
塩マス 111石(20.0m3
イワシ絞り粕 61石(11.0m3
ギンナンソウ 4956貫(18585kg)
ふのり 4704貫(17640kg)
魚油 13石(2.3m3
生サケ 75石(13.5m3
生カレイ 4210貫(15787.5kg)
そのほかの生魚 1000貫(3750kg)

以上、輸出総額は12万2337円だった。

農産物の輸出はゼロである。

概況
幌泉村(ほろいずみむら)には市街地が形成され、商家や漁家が軒を連ねている。日高国東部における主要な村のひとつであり、警察分署、森林監守駐在所、戸長役場、郵便局、電信局などがこの村にある。

幌泉村に続いて大きいのが庶野村(しょやむら)と小越村(おこしむら)である。漁業が盛んで、巡査駐在所と郵便局がある。 近呼村(ちかよっぷむら)・笛舞村(ふえまっぷむら)、歌別村(うたべつむら)、猿留村(さるるむら)の4つの村も漁業が中心だが、農業を営んでいる人もいる。歌露村(うたろむら)と油駒村(あぶらこまむら)は純然たる漁村。

幌泉郡は漁業に支配されている。豊漁/凶漁の違い、またそれにともなう水産物価格の高い/低いの差が、住民たちの生活に大きく影響する。1897(明治30)年現在、幌泉郡内の昆布干場は合計364カ所。このうち半分は「函館商人」たちの所有地で、残りの半分が幌泉郡在住者の所有地である。漁業の設備は次のとおり。

サケ建て網 21カ統
マス建て網 3カ統
イワシ建て網 4カ統
イワシ曳き網 1カ統
カレイ漁船 154艘

有力と呼べる漁業者はごくわずかである。ほとんどの人たちは函館商人の「仕込み(融資)」を受けて漁業を行なっている。雇用労働者はおもに青森県・岩手県・秋田県、もしくは函館方面から募集しているが、彼らの多くは西部地方でニシン漁に従事した後、幌泉郡の漁場に移ってくる。昆布採取船は、以前は2人乗りのものが使われていたが、近年は内浜での漁は一人乗りの採取船に変わって、もう一人を雇用する人はまれである。外浜での昆布採取船は現在も2人乗り・4人乗りのものが使われている。カレイ漁は多くは「分方」だが、そのいっぽうで労働者を雇用して営業する人もいる。こうした事情から、幌泉郡の昆布・カレイ漁では、新潟県・石川県・富山県などの出身で函館在住の漁師たちの「入り稼ぎ」者の船が、毎年数十艘におよんでいる。

幌泉郡内には農業に適した土地が非常に少ない。これまでに開墾済みの農地は264町2反歩(262ha)にすぎない。また、いったん開墾したのに、放棄された土地も少なくない。開墾地の多くは漁家の野菜畑で、農家と呼べるのは30世帯あまりにとどまっている。そうした人たちも、漁場で雇用労働についたり、炭焼きを兼ねたりして、専業農家はまれである。

郡内に合わせて1900頭の馬が飼育されている。郡内には、幌泉産馬組合の牧場がある。また庶野村・小越村にそれぞれ共同牧場名目の貸付地があるが、未整備のままである。幌泉村では牛36頭が飼養されている。

戸長役場は幌泉村にあり、郡内のほかの村々も総合して行政をつかさどっている。例外的に、教育行政は各村が独自に行なっている。郡内の現在の学校施設は、幌泉尋常小学校、近呼村・笛舞村共同の尋常小学校と、歌露布村・油駒村共同の簡易小学校、また小越村・庶野村・猿留村各村の学校である。


1899年の近呼村 ちかよっぷむら

沿革
北西部はニカンペツ川を境に様似郡(さまにぐん)誓内村(ちかぷないむら)と隣り合っている。東部はポロムイを境界として笛舞村(ふえまっぷむら)に隣接している。北部は丘陵地帯、西側は海に面している。ニカンペツ川は、様似郡との郡界近くの山中から流れ出てきて、曲がりくねりながら南西に向かって流れ、海に注いでいる。ニカンペツ川の両岸には高い河成段丘が続いていて、フラットな土地はない。

植生を見ると、カシワ・ナラ・ハンノキ類が多く生えている。海岸線から約0.5里(2.0km)ほど内陸に入ったあたりからトドマツが混生し始めるが、良材はもっと山奥に入らないとみつからない。

海岸沿いに国道が敷設されている。東に向かって幌泉村まで1里32町(7.42km)あまりの距離である。

沿革
開拓使(1869年設置)以前から、ここには10以上の漁業施設が建っていた。1870(明治3)年、青森県出身の阿部氏が移住してきた。1872(明治5)年に昆布干場の「割り渡し」事業が始まると、移住者数が増加し、1875(明治8)年に27世帯を数えるまでになった。
1878(明治11)年、「廣業商会」が資金を投入して漁業を展開し、とりわけ昆布の水揚げ量が増えた。しかしその後は少しずつ収量が減り、村の経済は一転して縮小。1895(明治28)年以降はカレイ漁業が発達して、景気は少し回復してきた。

戸口
1897(明治30)年現在の村内の世帯数は29世帯、144人である。最も多いのは青森県出身者、続いて秋田県出身者、宮城県出身者の順に多い。

漁業
漁獲の中心は昆布とカレイ。1897(明治30)年現在の状況は以下の通り。

昆布採取船 27艘
カレイ漁川崎船 5艘
サケ建て網 1カ統

農業
1883(明治16)年~1884(明治17)年ごろまでは、わずかな野菜を栽培しているに過ぎなかった。昆布漁業が不振に陥って住民たちの生活が困窮するようになって初めて、1885(明治18)年以降、農地の開墾を始める人が出てきた。1892(明治25)年~1893(明治26)年ごろには、1世帯あたり5反歩(49.6a)~1町歩(99.2a=1ha)で作付が行なわれていた。しかし1894(明治27)年以降は、カレイ漁業が発達して(漁業収入が増えたため)耕作面積は減っていき、現在の1世帯あたりの耕作面積は5~6反歩(49.6~59.5a)に満たない。

3世帯が合わせて25頭の馬を所有している。馬はすべて「官林」に放牧されている。

商業
酒類・菓子などの商店が3軒ある。村民たちは、日用品の買い物は幌泉村に依存している。

風俗・人情
村の情勢は穏やかである。

生計
村民たちは、春はカレイ漁、夏は昆布漁、秋はサケ漁の雇用労働に従事している。農業はほとんが女性や未成年者の仕事。農業は「漁業の副業」と位置づけられている。生活困窮者はいない。

宗教
1842(天保13)年、場所請負人の福島屋嘉七氏が稲荷神社を設置した。1875(明治8)年に「村社」に格上げされた。


1899年の笛舞村 ふえまっぷむら

地理
西側は近呼村(ちかよっぷむら)と隣り合っている。東部はアベヤキ川を境界に幌泉村(ほろいずみむら)と接している。北側は丘陵地帯、南側は海に面している。

高い台地がある。アベヤキ川の岸沿いにちょっと広い低地がみられ、ここは農地に向いている。高原地帯には樹木が少ない。わずかにカシワ・ナラ・ハンノキ類が生えている。河岸にはアカダモ・ヤチダモ・ヤナギ類が生えている。

国道は、海岸の砂浜から高台を経由して幌泉村につながっている。

沿革
嘉永時代(1848~1853年)、青森県三戸(さんのへ)出身の北村氏が「番人」としてここに赴任してきて、そのまま永住した。続く安政時代(1854~1859年)に岩手県出身の中澤得兵衛氏が住み始めた。1870(明治3)年になって「出稼人」の中からこの地に定住する人が現れだし、1872(明治5)年には20世帯を数えるまで増加した。これは、昆布干場の「割り渡し」事業が実施されたためである。1894(明治27)年から1895(明治28)年にかけて、宮城県や青森県出身者が数世帯、新たに移住してきて、農業を営んでいる。

戸口
1897(明治30)年末現在の人口は51世帯、249人である。出身地方別では、青森県・岩手県・秋田県の順に人数が多い。

集落
ウエンコタン地区は12世帯の小さな集落である。小学校と小売店がある。プイマツ地区に6世帯、炭焼古潭(すみやきこたん)には7世帯が住んでいる。そのほかの村民は海岸部にそれぞれ離れて暮らしている。

漁業
1897(明治30)年現在の漁業状況は次のとおり。

昆布採取船 21艘
カレイ漁川崎船 16艘
カレイ漁持符(もちっぷ)船 8艘
サケ建て網 2カ統
マス建て網 1カ統

漁船の出入りがしやすいため、幌泉郡内で最良のカレイ漁場と言われている。将来はもっと発達する可能性がある。

農業
1887(明治20)年ごろまでは、せいぜい野菜作りをしている人がいるに過ぎなかったが、漁業がふるわなくなるにつれ、農業を始める人が増えた。1894(明治27)年ごろから、土地の貸し付けを申請する人が多くなり、7人がそれぞれ1万坪(3.3ha)の貸し付けを受けた。そのうち最大面積となる7万2000坪(23.8ha)あまりの貸し付けを受けたのが、油駒村(あぶらこまむら)在住の守田安右衛門氏で、小作者3世帯が開墾にあたっている。
そこはアベヤキ川沿いの土地で、地表を覆う厚さ3~4尺(0.9~1.2m)の砂質層の下部に砂礫層がある。 農業の質は低く、プラオを所有しているのは1世帯にとどまる。プラオ所有世帯の作付面積は5町歩(5.0ha)だが、その他の世帯は5反歩(49.6a)~11町歩(10.9ha)である。
作物は、大豆・小豆・ハダカムギ・イナキビ・ソバムギ・バレイショ・野菜類である。

村全体で計86頭の馬が使用されている。馬の所有者は合わせて8世帯。このうち1世帯は単独で30頭を所有しているが、残りの世帯の所有頭数は7~8頭である。

木材・薪炭
炭焼古潭(すみやきこたん)集落は、「会所」があった時代にここで炭焼きが行なわれていたことから、この名前がついた。現在も7カ所の炭焼き窯があり、たいていは農閑期に炭を焼いている。

風俗・人情
人々は素朴で、村は平穏な様子である。

生計
村人たちの仕事は漁業が中心。人々は農業も兼ねていて、生活困窮者は少ない。自営業者は2世帯にとどまるが、その他の世帯も多少の財産を蓄えている。自営以外の世帯は、幌泉村の業者からではなく、直接、函館(の業者)から仕込み(融資)を受けている。笛舞村は、幌泉郡内では比較的裕福な村である。

宗教
近呼村と同じく、1842(天保13)年に、当時の場所請負人・福島屋がこの地にも稲荷神社を建てた。1875(明治8)年、「村社」に格上げされた。


1899年の幌泉村 ほろいずみむら

地理
北西部はアペヤキ川を境界線に笛舞村(ふえまっぷむら)に隣接している。北方は丘陵地がだんだん高度を増してルチシ山につながっている。東部はコロフル川を境に歌別村(うたべつむら)と隣り合っている。村域は全体的に高原地帯に属していて、低い土地はアペヤキ川やナンプケ川の川沿いにわずかしかない。

高台の土壌は、厚さ5~6寸(15~18cm)の黒色をした表土の下に、粘土層がある。 樹木はほとんどすべてが伐採されてしまっていて、かろうじてカシワ・ハンノキ・ヤナギ類などの細い木々がところどころに生えているのしか見えない。海岸にはハマナスが多い。

運輸・交通
幌泉湾は、東西が2丁(町?)(218.2m)、南北が3丁(町?)(327.3m)の広さを持ち、水深は24尺(7.3m)である。湾は南西に向かって口を開いていて、函館までは航路で121浬(海里)(224.1km)。この幌泉湾は、汽船や帆船が絶えず出入りしていて物資の搬出・搬入に適している。ただし、規模の小さい湾なので、大型船は入港できない。とりわけ、強い西風・南風が吹くと投錨すらできない。

国道は、高台を横切ったあと、東歌別川(ひがしうたべつがわ)沿いに山間を進み、庶野村(しょやむら)に通じている。このほか、海岸沿いに、歌別村(うたべつむら)を経由して小越村(おこしむら)まで続く里道がある。西方面は、様似村(さまにむら)まで7里(27.5km)弱の距離である。

沿革
幌泉は、古くからこの地方の重要地で、「会所」「通行屋」「常備倉」「雑庫」「雇土人舎」、うまやなどが建っていた。1869(明治2)年8月(旧暦)、開拓使の所管地域とされ、1872(明治5)年に幌泉出張所を設置。1874(明治7)年6月には幌泉派出所、1874(明治7)年11月には幌泉分署、と組織替えを繰り返した後、1877(明治10)年1月に浦河分署に統合された。1880(明治13)年1月、戸長役場を設置。

文久(1861~1863年)・慶応(1865~1868年)時代ごろから、「番人」たちの中にこの地域に永住する人が出てきて、1870(明治3)年までに3世帯が定住するようになっていた。1872(明治5)年、開拓使がこの地域への300世帯規模の移民を募集したところ、200世帯ほどが実際に移住してきた。うちわけは、家族をともなった人たちが約50世帯、独身者が約150世帯だった。彼らはみな、いったん幌泉村にやってきてから、他の村に分散・移住していった。

1873(明治6)年、池田松兵衛氏という人が初めて商店を開いた。その後、人口は少しずつ増えて、1877(明治10)年には村内の住民はおよそ50世帯になった。

この時期までは、アイヌも16世帯を数えていた。しかし、和人移入者が年々増加するに従って、十勝国(とかちのくに)広尾村(ひろおむら)に転居したり、北海道西海岸方面に出稼ぎにいったまま帰ってこなかったり、死亡したりして、現在はアイヌ人口は2世帯10人だけである。

kimpetatuy原文は〈是頃迄「アイヌ」十六戸アリシガ和人ノ移住年ヲ追テ増加スルニ従ヒ或ハ十勝國廣尾ニ転ジ或ハ本道西海岸ニ出稼ギシテ帰ラズ或ハ死亡シテ現在二戸十人アルノミ〉。この時期、和人移入者の急増が、地域から先住民族アイヌを追い出す結果を招いたことを、この報告書の執筆者(当時の北海道庁殖民部員)は認めています。こうした事例は1870~1880年代のヤウンモシㇼ(北海道島)各地で記録され、現代の歴史学は、「開拓政策による市街地の形成が先住していたアイヌ民族を排除しつつ行われたこと」、また「開拓使の施策の下での濫獲や禁猟(漁)がアイヌ民族固有の生活基盤を崩していたこと」(引用はいずれも小川正人『近代アイヌ教育制度史』p53、1997年、北海道大学図書刊行会から)を示している、とみています。

1875(明治8)年、(開拓使の「御用達」だった)福島屋(嘉七)氏が事業から手を引いて函館に戻ってしまうと、村の経済は一時、大きく混乱した。何人かの村民が企画して商店を設立したものの、すぐに失敗に終わった。1878(明治11)年、廣業商会が起業して一時的に生産額は増大したが、同社の経営悪化にともない村全体が再び不振に陥った。

1884(明治17)年、電信局が設置され、通信事情が大きく向上した。
1885(明治18)年、区裁判所が設置された。
それ以降、移入者数は毎年増加し、函館との間で交通量が増大した。
1889(明治22)年、日本昆布会社が(政府からの)融資を受けて創業した。当初こそ活況を呈したものの、1894(明治27)年に融資が停止されると経営不振に陥った。
1897(明治30)年、区裁判所を浦河村に移設。

近年はカレイ漁が発達してきたおかげで、極端な衰退状態からは脱しつつある。

戸口
1897(明治30)年現在の人口は、221世帯、1363人である。出身地別では、青森県・岩手県・山形県出身者が多くを占め、長崎県・神奈川県・福井県などからの移入者たちと混じり合って居住している。

市街地と集落
幌泉湾の北岸、ナンプケ川の東側に幌泉市街地が形成されている。大きさは南北およそ3町(327.3m)、東西に4町(436.4m)。海岸から高台まで続いている。市街地は東西方向2条、南北方向4条の道路で格子状に区分され、戸長役場、警察分署、森林監守駐在所、郵便局、電信局、漁業組合事務所、神社、寺、灯台、人馬継立所などが設けられている。およそ180軒の家屋が並び、そのうち半数が商店である。ホテル7軒、回漕店1軒、牛乳搾取業者1軒、銭湯2軒、理髪店2軒、と畜販売商6軒、レストラン12軒、貸座敷2軒、寄席1軒、酒造業1軒が営業している。

上記の幌泉市街地のほか、村内には字ナンプケ集落(15世帯)、サツコツ集落(3世帯)、シロオマナイ集落(3世帯)、シンケシナイ集落(5世帯)といった集落があり、それ以外にも河岸・海浜のところどころに家が建っている。

漁業
1897(明治30)年現在の漁業規模は次のとおり。

昆布採取船 77艘
昆布水揚げ量 1385石(249.9m3
サケ建て網 2カ統
サケ水揚げ量 248石(44.7m3
カレイ漁川崎船・持符船 計79艘
カレイ水揚げ量(1艘平均) 川崎船80石(14.4m3 持符30石(5.4m3

漁業向けの仕込み(融資)元は、ほとんどが函館の業者に頼っている。また、函館の業者から受けた融資を、地元の他の漁業者に又貸ししている人が数人いる。

幌泉村沿岸でのカレイの手繰漁を担う中には、北陸地方(新潟県・富山県・石川県など)出身者で、函館方面から「入り稼ぎ」にやってくる漁師たちもいて、毎年20艘以上の漁船が出漁している。彼らの大部分は〈分方法〉(現代語未訳出)で営業している。 昆布採取は、以前は二人乗り組みの船が使われていたが、近年は一人乗り組みが一般化している。これは、昆布の生育量が年々低下しているためである。

雇用労働者たちの中は、カレイの漁期が終わったら次は昆布漁、さらにサケ漁へと、対象種を変えながら連続して漁に従事する人もいるし、それぞれ1種類の漁期にだけ働く人もいて、労働形態はまちまちである。 カレイの漁期はだいたい3月上旬~6月末で、給料は船頭で75円、「普通漁夫」で40円ほど。 昆布漁期は7月20日~10月20日と決まっていて、漁師の給料は17~20円。 サケ漁期は9月~11月末で、給料は船頭50円、「脇船頭」25円、「人夫」17~18円。シーズンの水揚げ量が100石(18.0m3)を超えたら〈九一〉(現代語未訳出。水揚げした魚のうち、10%を入漁料として雇用者に支払い、残り90%を自分が受け取れる、というシステム?)のボーナスが支給される。

沖合5~6里(19.6~23.6km)にはタラやサメが群生していると言われているが、操船技術の高い人材が得られないので、これらの漁業は未発達である。

商業
幌泉郡内の生産物の半分以上は、いったん幌泉村に集荷されてから函館方面に輸出されている。幌泉郡の住民たちが必要とする物資は大半が函館からの輸入品で、東京・大阪・名古屋方面からも品物が届く。いずれもいったん幌泉村に届いたものを、郡内の各村に配送している。

1897(明治30)年の輸出総額は17万7161円。その金額の1/3以上をカレイ絞り粕が占め、ほかにも長切り昆布、塩サケ、海藻、サケ筋子、塩マス、魚油、生サケ、生カレイ、イワシ絞り粕、塩ブリ、干しホッキガイなどが輸出されている。
輸入総額は18万2422円。コメの購入金額が多くを占め、酒、呉服(キモノ)、太物(ふつうの衣服)、ロープ、ムシロ、漁網、味噌、醤油、砂糖、紙類、畳、小麦粉、麺類、菓子類、茶、陶器、漆器、石油などを購入している。

地元の漁業者・商業者のいずれにも有力者といえるほどの人はいない。住民たちは常に逼迫感を抱いている。村の経済を一年を通してみると、3月にカレイ漁期が始まると活発化し、昆布漁の始まる7月から12月中旬ごろにかけて円滑に回るが、それ以降は年明け3月まで低迷してしまう。村内の金利は、通常は月利2~2.5%ていどだが、4~5%に上昇することもある。物価は、函館に比べると10~15%ほど高いが、浦河村に比べると幌泉村の方が「モノが安く買える」と言われている。

農業
かつて幌泉に会所があった時代に、歌別川沿いで野菜が栽培されていたという。1872(明治5)年、函館・七重(七飯?)から幌泉に移り住んだ伊藤という人物が、野菜を育てて販売し、利益を上げた。1874(明治7)年~1875(明治8)年ごろから、住民たちがそれぞれ小規模な畑を開いて野菜を作るようになった。1887(明治20)年ごろ以降は、競い合うように土地の貸し付けを申請して開墾を進める人たちも出てきたが、土壌は痩せていて思ったほどの収穫は得られず、(放棄されて)また原野に戻ってしまった土地も少なくない。現時点で、1万坪(330.6a)以上の貸付地を所有する人は14人。そのほかの地主たちの所有面積は2~5000坪(0.1~165.3a)である。小作者は10世帯あまり。

作物の種類は笛舞村(ふえまっぷむら)と同様(大豆・小豆・ハダカムギ・イナキビ・ソバムギ・バレイショ・野菜類)である。
前記のように、この地方は薪炭材が非常に欠乏している。近年の土地貸し付け申請者たちの中には、農地を開墾するためというより、薪炭材の伐採を目的にする傾向が強まっている。貸付を受けた土地の樹木を皆伐したら、後は放置して(農業をしないまま)いなくなってしまう人が多い。

牧畜
1887(明治20)年、幌泉郡内各村の有志たち60人あまりが共同で「幌泉産馬改良組合」を設立した。オクペツ川沿いの字モイワ地区とシロヅミ地区の広大な面積の土地貸し付けを申請し、北海道庁との間で種牡馬〈アルゼリー種〉のレンタル契約を結んで、事業の準備を進めていたのだが、それまでは自由に無償で官林に放牧できていたのに、組合設立後に費用がどんどんかさんだため、組合員の半分以上が組合を脱退してしまう事態を招いた。その後も紛糾して組合は瓦解寸前の状態に陥ったものの、メンバーの林重吉氏らの努力でかろうじて維持された。1897(明治30)年には組織を大きく変えて基礎を固め、事業規模を拡大できるまでになった。組合は現在、株式会社になり、組合員数は11人である。貸付地は、幌泉村から歌別村(うたべつむら)にかけて設定され、モイワ地区・シロヅミ地区・キナシペツ地区、合わせて104万5400坪(345.6ha)。所有馬は、2歳以上の馬が〈アルゼリー雑種〉と道産馬がそれぞれ148頭ずつ、当歳馬が50頭いて、牧場の内外で放牧飼育されている。現在の種牡馬は、北海道庁からレンタルを受けている農用雑種1頭と南部乗用雑種1頭である。生産馬は日高馬市会社を通して販売されている。ただし当面は繁殖が目的なので、牝馬(不良馬を除く)は出荷していない。

幌泉村全体で計680頭あまりの馬が飼養されている。馬の所有者は30人で、一人で30頭以上の馬を所有している人が5人いる。産馬改良組合の組合員以外の馬所有者は、たいてい官林に馬を放牧している。

村全体で計36頭の牛が飼われていて、歌別村字歌別地区の牧場で放牧・飼育されている。

木材・薪炭
この地域では薪炭材が欠乏していて、薪や木炭の値段はとても高い。薪は1敷あたり2円50銭、木炭は6貫目(22.5kg)1俵あたり25銭。またトドマツの角材は100石(18.0m3)あたり170~180円である。

薪炭材はアペヤキ川沿岸の上歌別地区などから供給を受けている。建築材はニカンペツ地区・幌満地区・アペヤキ地区の官林からの伐採木が供給されている。

風俗・人情
衣食住のレベルは、浦河市街地とだいたい同じくらい。豊漁か不漁かによって村全体の経済が左右される土地柄のせいだろう、人々の性格もかたくなで頑固な傾向がある。

生計
住民たちは商業、漁業、そのほかのいろいろな仕事に従事している。困窮している人は少ない。

教育
1878(明治11)年11月、歌別村と共同で幌別尋常小学校を設置した。現在は教員が3人、生徒数は182人である。

衛生
1872(明治5)年2月、札幌病院出張所として幌泉病院が設置された。その後、何回かの所管替えを経て、現在は公立病院になっている。医師1人が常勤している。

宗教
1814(文化11)年、住吉神社が設置された。祀られているのは表筒男(うわつつのおのみこと)・中筒男(なかつつのおのみこと)・底筒男(そこつつのおのみこと)。この神社は1875(明治8)年、「郷社」格になった。
真宗大谷派・能入寺は、もともと函館区浄玄寺の末寺だったが、1880(明治13)年に函館から幌泉村に移設された。明治17年から公式にこの寺号を名乗るようになった。このほか、真宗大谷派の光妙寺、曹洞宗法光寺、浄土宗善生寺などがある。

灯台
市街地の西方の高台に灯台がある。1891(明治24)年11月から点灯している。建物は木造、四角形、白塗りで、地面からの高さは1丈6尺(4.9m)あまり、海面からの高さは7丈2尺(21.8m)。赤色の固定光源を備え、光は6海里(11.1km)先まで届く。


1899年の歌別村 うたべつむら

地理
北西部はコロフル川によって幌泉村(ほろいずみむら)と隣り合っている。北東部は丘陵地帯。南東方面は歌露村(うたろむら)と接している。南西部は海に面している。オキシカヌプリに源流を持つオタペツ川は、南の方向に流れて海に注いでいる。

オタペツ川沿岸にはアカダモ、ヤチダモ、ハンノキ類、ヤナギ類、シウリザクラなどが見られる。また丘陵地帯にはカシワ、ミズナラ、シナノキ、ハリギリ、カンバ類が生えている。トドマツは歌別官林内にすこし生えているだけ。ササがよく繁茂している。

村内にフラットな土地は少ない。標高が高いだけでなく、厚さ5~6寸(15~18cm)ほどの黒色の表土の下は礫層か粘土層なので、農耕に適した環境とは言いがたい。

幌泉から上歌別を経由して庶野村(しょやむら)に通じる国道がある。また、コロフル川の東側で国道から分岐し、高台を横断して歌露村まで行ける里道がある。

沿革
かつて「昆布小屋」と「番屋」が建っていた。1870(明治3)年、南部(岩手県)出身の移入者が初めてこの地に定住するようになった。1872(明治5)年、昆布干場の割り渡し事業にともなって移入者数が増え、「出稼ぎ人」と合わせて42世帯を記録したが、早くも翌年1873(明治6)年には、税金を支払えずに十勝方面・西部方面に転出する人たちが出て、村内の世帯数は減った。

その後、廣業商会や日本昆布会社が進出して一時的に活況を呈したのは、幌泉郡内のほかの村と同様である。しかし近年は昆布がぜんぜん育たなくなっていて、かつて場所請負制の時代には100石(18.0m3)の昆布を水揚げしていた同じ場所でも、現在はわずかに30石(5.4m3)しか収穫できなくなっている。このため人口も減り続けている。

戸口と集落 明治30年現在の村内人口は40世帯、195人である。集落ごとの人口は、字番屋前(ばんやまえ)地区に9世帯、コロフル地区に6世帯、上歌別地区に5世帯、小休所地区に5世帯。その他、海岸部に3~4世帯ずつの集落が形成されている。青森県・岩手県出身者が多い。

漁業
明治30年現在の漁業の状況は次のとおり。

昆布採取船 35艘
1艘あたりの昆布採取量 およそ25石(4.5m3
カレイ川崎船 17艘
川崎船1艘あたりのカレイ水揚げ量 80石(14.4m3
カレイ持符 2艘
持符1艘あたりのカレイ水揚げ量 20石(3.6m3
サケ建て網 3カ統

農業
オタペツ川沿いに位置する上歌別地区と小休所地区の土壌は耕作にまあまあ適している。現時点で、9人の村民がこれらの地区にそれぞれ1万~2万坪(3.3~6.6ha)の貸付地を所有している。それ以外の土地所有者たちの所持面積は1000~4000坪(0.3~1.3ha)ていどである。

農家数は上歌別地区・小休所地区にそれぞれ5世帯ずつ。ほとんどが小作者で、兼業農家である。作付面積は多い人で5町歩(5.0ha)、少ない人だと5~6反歩(49.6~59.5a)にとどまっている。また、海岸地区に住んで、畑に通っている人が多い。 1894(明治27)年から1895(明治28)年にかけて、少なくない面積の土地が、せっかく開墾したのに放棄されて、元の原野に戻ってしまった。

作物は大豆、小豆、ハダカムギ、イナキビ、野菜類である。

牧畜
村全体で104頭の馬が飼養されている。三浦弥助氏は一人で72頭の馬を所有している。その中には、〈アルゼリー雑種〉数頭、南部雑種数頭が含まれ、歌別官林内で放牧飼育されている。

歌別官林内に村の共同牧場を設定すべく、申請手続き中である。

木材・薪炭
上歌別地区と小休所地区に合わせて5カ所の炭焼き窯がある。農家が副業として一年中稼働させ、製品の木炭を幌泉村に出荷している。
薪の価格は、海岸地区で1敷あたり2円である。

風俗・人情・生計
人々は飾り気がなく、大部分の人はここに骨を埋めようとは思っていない。大金持ちも、また困窮者もいない。

教育
子どもたちは幌泉小学校に通学している。1896(明治29)年12月、地元に分教場が設置され、冬の間だけだが、低学年の子どもたちに授業をしている。


1899年の歌露村 うたろむら

地理
西方は歌別村(うたべつむら)と隣り合っている。北東部は丘陵地帯。東側は油駒村(あぶらこまむら)に隣接し、南側は海に面している。
村全体が高原・丘陵に分類される地形で、後は海辺に砂浜が見られるだけである。海浜に沿って里道がつくられ、幌泉まで1里15町(5.6km)の距離である。

沿革
かつて「番屋」1棟が建っていた。1870(明治3)年、数世帯が移住してきた。1872(明治5)年には22世帯まで人口が増えたが、その後は昆布が育たなくなって、住民たちは徐々にこの地を去ってしまった。当時からの住民は今ではわずか3世帯しか残っていない。それ以外の住民たちはみんな、1882(明治15)年以降に移入してきた人たちである。

戸口
1897(明治30)年末の調査によれば、村民数は21世帯、98人である。ただし、実際に現地で調べてみた結果は、現住者は9世帯にとどまる。

漁業
明治30年の漁業の状況は次のとおり。

昆布採取船 22艘
昆布収穫量 578石(104.3m3
サケ建て網 2カ統
サケ漁獲量 116石(20.9m3
マス建て網 1カ統
マス漁獲量 50石(9.0m3
イワシ建て網 1カ統
イワシ漁獲量 6石(1.1m3
カレイ漁川崎船 14艘

カレイ漁では、函館方面から川崎船7艘の「入り稼ぎ」者がいた。カレイ漁船1艘あたりの漁獲量は平均80石(14.4m3)だった。
海岸から3~4里(11.8~15.7km)の沖合に出漁することを「沖出」と呼び、数年前までタラ釣り漁に出る人たちがいたが、収穫につながらずに、現在はだれも出漁しなくなっている。

農業
村内には農業に適した土地がなく、専業農家もいない。歌別川のそばで野菜を育てている人がいる。村全体で3人の住民が合わせて36頭の馬を飼育している。


1899年の油駒村 あぶらこまむら

地理
北西部は歌露村(うたろむら)に接している。東側は小越村(おこしむら)と隣り合っている。北部は高台の地形、南側は海に面している。襟裳岬の先端から連なる高原を擁し、海岸線は打ちつける波の浸食を受けて断崖絶壁になっているところが多い。樹木は絶無といってよく、ササと草本が生えているだけである。

歌露村から高台を通過して幌泉村(ほろいずみむら)に続く里道があり、幌泉村までの距離は1里33町(7.5km)。

沿革
「魚(アブラコ)の多い磯」から「アブラコマ」の地名がついた。かつては「番屋」が建っていた。1870(明治3)年に移り住んだ山梨県出身の守田安右衛門氏が、永住者の嚆矢である。1872(明治5)年、10数世帯が移入してきた。1880(明治13)年以降、出たり入ったりしながら、世帯数は増えている。

戸口
1897(明治30)年末現在の人口は25世帯、167人である。青森県出身者が最多で、秋田県出身者が次に多い。

集落
ヤンゲペツ地区に小学校があり、10世帯の漁民たちが住んでいる。シリポク地区には6世帯。またオショロシケ地区やテシケプ地区などにそれぞれ2~3世帯が住んでいる。

漁業
1897(明治30)年の漁業の実態は次のとおり。

昆布採取船 26艘(すべて2人乗り組み)
昆布収獲量 平均35石(6.3m3)/艘
1880(明治13)年から1881(明治14)年ごろまでは、平均80石(14.4m3)/艘の収穫があったが、以降は年を追うごとに収穫量が減少しているという。

カレイ漁川崎船 12艘
このうち10艘は小越村(おこしむら)からの「入り稼ぎ」である。1艘に6~7人が乗り組み、漁獲量は平均80石(14.4m3)/艘。 この地方ではアブラコが非常にたくさん獲れると言われているが、実際には自家消費用に水揚げされているに過ぎない。

タラ漁持符 2艘
沖合に4~5里(15.7~19.6km)ほど漕ぎ出せば大きな魚群にあたると言われているが、いつも波が高いため、実際にはせいぜい1里(3.9km)ほどの範囲にしか漕ぎ出せず、漁獲量は伸びていない。

サケ建て網 3カ統

農業
農業に適した土地は少しもない。小越村の字トワペツ地区に野菜畑が2~3反(19.8~29.8a)ほどあるだけである。

牧畜
村民のうち8人が合わせて121頭の馬を所有している。このうち守田安右衛門氏は一人で39頭を所有している。馬たちはすべて原野に放牧されている。

生計
漁業の高い収益に支えられて、生活に困っている人はいない。

教育
1889(明治22)年6月、歌露村との共立簡易小学校が開校した。3年制で、現在の児童数は19人。教員1人が指導している。

灯台
襟裳岬先端部、西側の一番高い場所に灯台が建っている。1889(明治22)年6月から点灯を開始。「二等測候所」の資格を取得して、気象観測も行なわれている。
鉄製の円形構造で白く塗られている。「第一等回転白色光」を備え、光線の到達距離は21海里(38.9km)。30秒ごとに一回の閃光を発する。霧が濃かったり、雪が降ったりしている日は、1分間に2回のリズムで霧笛を吹き鳴らして船舶に位置を知らせている。毎年5月から7月にかけての3カ月間が、霧笛を最も多く吹き鳴らす季節である。


1899年の小越村 おこしむら

地理
南西部は油駒村(あぶらこまむら)に隣接している。東方は海に面している。北部はトワペツ川を境に庶野村(しょやむら)と隣り合っている。高原地形に属し、海岸に近づくにつれ、北部では地面が緩やかに傾斜、また南部では急傾斜している。とりわけ襟裳岬の端部では、ゴツゴツと険しい断崖が形成され、岬のそばの海面には無数の岩礁が散らばるように分布している。そのうち比較的大型のものは、ポロイソ、リーワタラ、エサント、イナウウシ、ピンネワタラ、マチネワタラなどと名前をつけて呼ばれている。

運輸・交通

西方面に向けて、油駒村を経由して幌泉村に続く里道がある。幌泉村までの距離は2里33町(11.5km)。東方面は、百人浜(ひゃくにんはま)を通って庶野村まで3里(11.8km)の距離だが、ただの砂浜で、道路ではない。
物資はすべて、函館との間で取り引きされている。帆船・汽船の来航回数は毎年20回以上を数える。

ここ小越村は、北西寄りの風を避けることができるので、(襟裳岬の西部沿岸に並ぶ)浦河村(うらかわむら)・様似村(さまにむら)・幌泉村などに停泊中の船舶の避難先になっている。避難してきた船が小越村の海に一度に5~7隻も集まることも珍しくない。(襟裳岬の東側に位置する)大津村(おおつむら)やさらに東部地方からも、小越村に非難してくる船があるという。

沿革
この地域はもともと有名な昆布生産地で、会所時代(1799年~)には「3000石(541.2m3)の場所」と呼ばれていたという。幌泉会所の「出張番屋」が設置されていた。また、寛政年間(1789~1800年)のころから、「自分稼ぎ」と称する和人の「入り稼ぎ者」がたくさんいた。文久・慶応(1861~1868年)のころには、3世帯が一年を通して住みつくようになっていた。1872(明治5)年、開拓使が移民を募集すると、青森県・岩手県・秋田県から50世帯が移入してきた。廣業商会や日本昆布会社が進出してきたときは村の経済は活況を呈したが、1894(明治27)年以降は、昆布の価格が下落したうえ不作続きで、経済は次第に低迷していった。

戸口
1897(明治30)年末現在の村内人口は81世帯、554人である。最も多いのは青森県出身者、ついで岩手県・秋田県・石川県出身者が多い。

集落
字小越地区には巡査駐在所、小学校、郵便局、神社、寺、小売店、理髪店などがある。およそ30世帯の漁業者が暮らしている。 オマヘマウシ地区・ニオマイ地区・シヤマンベウク地区・フラリムイ地区に、それぞれ7~8世帯が居住している。

漁業
昆布採取期間は7月20日から11月15日までと決められている。昆布漁業は、採集・製造のいずれについても、「規約」がよく守られていて、だからこそ小越村産の昆布はいつも評判を維持し、ほかの場所の昆布に比べ、いつも価格の高い部類にランクされている。明治30年の状況は次の通り。

昆布採取船 65艘
昆布収獲量 3822石(689.5m3
昆布(出荷?)価格 1万0870円
サケ建て網 2カ統
サケ漁獲量 175石(31.6m3
サケ(出荷?)価格 2600円
カレイ漁川崎船 11艘
カレイ漁獲量 平均60石(108m3)/1艘

昆布干場の半分は、函館商人が所有している。小越村の漁民たちの多くが函館(の業者)から「仕込み(融資)」を受けていて、それがこの結果につながっている。小越村の住民で、他者への仕込み(融資)を行なっている人が11人いる。彼らは、函館(の業者)から融通してもらった現金や物資を村内の漁業者に貸し付けて(利ざやを得て)いる。

農業
字トワペッ地区の(トワペツ)川沿いの土地で、4世帯が漁業のかたわら農耕・牧畜を行なっている。それぞれ2~3町歩(2.0~3.0ha)を開墾し、野菜・イナキビ・ハダカムギなどの種をまいて育てている。その他の漁業世帯は、だいたい1~2反歩(9.9~19.8a)の畑で野菜を育てている程度。小越村では、世帯向けの貸付地面積は最大でも3400坪(1.1ha)しかなく、一般的な貸付地面積は500~600坪(16.5~19.8a)である。

牧畜
庶野村の字キシケプ地区に、油駒村と小越村の共同牧場として30万坪(99.2ha)の有償貸付地が設定されているが、まったく未整備である。小越村には合わせて301頭の馬が飼われている。一人で30頭以上を所有する人が3人、15~20頭を所有する人が数人いる。

木材・薪炭
字トワペツ地区に炭焼き窯が3カ所あり、一年中稼働している。1881(明治14)年~1882(明治15)年ごろまでは、集落に隣接する高原地帯にカシワ・ナラ・ハンノキなどが生えていたが、それをすべて伐採し尽くしてしまったいま、焚き木の供給が止まるのではないかという危機感が募っている。現在の燃料価格は、薪が1敷あたり2円30銭~3円、木炭が7貫目(26.3kg)1俵あたり31銭である。薪も木炭も、トワペツと庶野村から供給されている。

風俗・人情
村は平穏で、村民は素朴である。教育熱心な雰囲気がある。

生計
漁民たちは(春期には)カレイ漁、(夏期には)昆布漁に従事している。女性たちは副業としてフノリやギンナンソウの採集を担当している。お金持ちはいないかわりに生活困窮者もいない。

教育
1883(明治16)年、小越尋常小学校が開校した。現在は4年制の尋常科と2年制の補習科があり、生徒数は51人である。また11月から翌年3月までの間は、青年層を対象に夜間学校を開いている。

衛生
1896(明治29)年、一時的に脚気病が流行した。また近年は結膜炎患者が多い。これは、海岸に発達している砂丘から、絶えず吹きつける強風に乗って砂粒が飛んでくるせいだろう。

宗教
「村社」の襟裳神社には、保食神(うけもちのかみ)が祀られている。1875(明治8)年に「村社格」に加えられ、ずっと襟裳岬の先端部に建っていたが、その後、村の中央部に移設された。
1890(明治23)年、曹洞宗・迦葉院(かしょういん)が設置された。曹洞宗の信者は多い。


1899年の庶野村 しょやむら

地理
南側はトワペツによって小越村(おこしむら)と隔てられている。西方は歌別村(うたべつむら)と隣接している。北側はウエンペツを境に猿留村(さるるむら)と隣り合っている。東南方面は海に面している。海岸線は幌泉郡内でもっとも長い。村の北部は山岳地形、南部は高原地形である。チピランソヤ地区より北側の海岸は断崖が多い。

「庶野」の元の名前はアイヌ語の「ソヤ」で、「岩磯」という意味である。

チピランソヤ地区から南に向かって、小越村までの海岸は「百人浜」と呼ばれ、ずっと砂浜が続いている。むかし、南部(岩手県)出身の八谷佐吉氏ら100人以上を乗せた船がこの場所の沖合で暴風に遭って沈没し、全員が死亡したことからこの名前で呼ばれるようになった、と伝わっている。ただし他の説もあって、詳しいことは分からない。

運輸・交通
西方から続く国道は、字チピラウシ地区で枝分かれして、1本は山道、もう1本は海岸沿いの道になる。山道のほうは、1892(明治25)年に開削され、こまめな補修工事によって維持されている。馬での通行も可能だが、冬期間は谷が深い雪に覆われるため、徒歩でしか通れない。大雪に見舞われると、郵便物が1~2日間、停まってしまう。毎年11月から翌年4月までの間、毎月5円ずつの補助金を庶野駅逓にあてがい、字峠下(とうげした)に「番人」を配置して、郵便配達人や電信技術者、旅行者たちに宿泊場所を提供している。海岸道路のほうは、1891(明治24)年~1892(明治25)年ごろ、険しい岩の岸壁を掘削して隧道(トンネル)を通した。暴風や高波のために通行不能になる日は少なくない。庶野駅から西に向かって幌泉までの距離は5里(19.6km)あまり。東方面は、猿留まで山道なら4里3町(16.0km)、海岸道路だと3里(11.8km)である。

物資の輸出入は函館との間の船運に頼っている。幌泉との間での取り引きはごく一部である。

沿革
昔から「昆布小屋」や「番屋」が設置されていた。1870(明治3)年、新潟県出身の長岡庄兵衛氏という人物が、石川県や岩手県で募集した30世帯の漁師たちを連れて、庶野村に移住してきた。1872(明治5)年、開拓使の移民募集事業に応じて、20世帯が新たに移入してきた。1873(明治6)年~1874(明治7)年ごろ、エゾシカ狩猟が盛んに行なわれ、この付近で2万頭以上が捕獲されたという。移入者はその後も増え続け、人馬継立所や郵便局が設置された。1884(明治17)年~1885(明治18)年ごろには住民は100世帯以上になったが、日清戦争の影響を受けて昆布の価格が低迷すると、10世帯以上も減った。

戸口
明治30年末現在の人口は83世帯、382人である。最も多いのは石川県出身者。以下、青森県・秋田県・新潟県出身者と続く。

集落
チピランソヤ地区からトマウンペツ地区にかけての北部沿岸にいちばんたくさん家が建っている。この一帯に小学校、巡査駐在所、郵便局、人馬継立所、説教所がある。ホテル3軒、小売店6軒、飲食店1軒もこのエリアにある。このほかサクパイ地区に8世帯、トーチツプ地区に5世帯が住んでいる。また、海岸沿いに1~2世帯ずつ固まって、ところどころに家が建っている。住民たちは全員が漁業に従事している。

漁業
明治30(1897)年の状況は以下の通り。

昆布採取船 64艘
昆布収穫量 2496石(450.3m3
サケ建て網 4カ統
サケ水揚げ量 266石(48.0m3
カレイ漁川崎船 13艘
カレイ漁持符 10艘
カレイ水揚げ量 平均100石(18.0m3)/川崎船1艘
  平均40石(7.2m3)/持符1艘

カレイ漁業は1896(明治29)年に始まったばかりだが、好成績を見せていて、こんご発展する見込みがある。漁師たちの多くは幌泉村の業者から仕込み(融資)を受けている。函館の業者から仕込みを受けている人もいる。

農業
字チピラウシ地区で3世帯の農家が開墾を進めている。このうち2世帯は5町歩(5.0ha)、1世帯は3町歩(3.0ha)の土地貸付を受けている。このほか、19人がそれぞれ1000坪(33.1a)以上の貸付地を得ているが、全員が海岸に居住する漁業者たちで、それぞれ2~3反歩(19.8~29.8a)の畑で野菜類をつくるにとどまっている。

牧畜
字キシケプ地区に庶野村共同牧場が設定されている。敷地の西側は歌別山、北側はトヨシヌプリの支脈につながっている。ササが繁茂していて、牧場には最適の条件である。面積は107万坪(353.7ha)あまり。1897(明治30)年の有償貸付地だが、まだ設備に見るべきものはない。村在住の長岡清治郎氏と浅木徳蔵氏がそれぞれ50頭以上の馬を所有し、北海道庁から種牡馬のレンタルを受けて改良繁殖を計画中である。村内のそのほかの馬主たちには10~20頭の所有者が多い。また、静内郡(しずないぐん)下下方村(しもげぼうむら)在住の在田英三郎氏、三石郡(みついしぐん)鳧舞村(けりまいむら)在住の山形鶴太郎氏、札幌区在住の藤森彌吾吉氏の3人は、庶野共同牧場の組合員に登録し、それぞれ所有する道産馬と南部雑種、合わせて数十頭ずつを庶野共同牧場の内外に放牧している。

商業
村民たちは、仕込み(融資)を受けている幌泉村や函館の業者と取り引きをしている。細々とした品物を扱う小売店が村内に6軒ある。

風俗・人情・生計
村民たちは穏やかで素朴な性格。この地に永住しようという強い気持ちは感じられない。生活に困窮している人はいない。

教育
1882(明治15)年、尋常小学校が開校した。児童数は51人。いずれも3年制の尋常科と補習科がある。

宗教
1874(明治7)年に稲荷神社が設置され、翌1875(明治8)年に村社とされた。1897(明治30)年に許可された真宗本願寺派の説教所、1898(明治31)年に許可された曹洞宗の説教所がそれぞれ1カ所ずつある。


1899年の猿留村 さるるむら

地理
南側は庶野村(しょやむら)と隣り合っている。西部には山々が重なるように横たわり、北側はピタタヌンケプ川によって十勝国(とかちのくに)広尾郡(ひろおぐん)茂寄村(もよろむら)と隔てられ、東側は海に面している。大部分が山岳地形で、フラットな土地は少ない。海岸線には断崖絶壁が多い。

様似郡(さまにぐん)との境界付近の山脈に水源を持つ猿留川は、途中たくさんの渓流を集めながら東に向かって流れ、海に注いでいる。

猿留はアイヌ語の「サロルンウシ」に由来し、「タンチョウの多いところ」という意味。あるいは、アイヌ語の「シャリヲロ」に由来し、「湿った沢のあるところ」と意味だ、という説もある。川沿いにはハルニレ、ヤチダモ、ヤナギ、ハンノキなどがみられる。また海岸の高台にはミズナラ、ヤチダモなどが生育している。猿留官林はトドマツが豊富で、エゾマツが混生している。

運輸・交通
西方は幌泉村(ほろいずみむら)まで8里4町(31.9km)の距離。北方は茂寄村まで5里23町(22.2km)である。西に向かうにも北に向かうにも、山道と海岸道の2ルートがあるが、どちらも悪路なので陸運は不便である。にもかかわらず、「(北海道島の)東海岸で一番」と言われる貨物の輸出規模は、函館と結ぶ航路のおかげである。

沿革
かつて「番屋」、「通行屋」、うまやなどが設置されていた。福島屋(嘉七)氏が(油駒場所)経営を請け負っていた時代に、目黒氏という人物が番人として赴任し、そのまま永住した。1872(明治5)年、開拓使の昆布干場割り渡し事業に合わせて移住してきた人が多い。1896(明治29)年、農業を目的に富山県出身者6世帯が移住してきた。

戸口
1897(明治30)年末現在の人口は28世帯、106人である。最も多いのは青森県出身者。次に多いのは秋田県・岩手県出身者である。郵便局のほか、ホテル3軒、小売店が3軒ある。

漁業
明治30年の状況は以下の通り。

昆布採取船 20艘
昆布収穫量 425石(76.7m3
サケ建て網 3カ統
サケ水揚げ量 369石(66.6m3
マス建て網 1カ統
マス水揚げ量 31石(5.6m3
イワシ建て網 1カ統
イワシ水揚げ量 30石(5.4m3
カレイ漁川崎船 10艘
カレイ水揚げ量 平均80石(14.4m3)/川崎船1艘

漁業者は全員が函館商人の仕込み(融資)を受けている。

農業
猿留川上流の岸沿いに1里(3.9km)ほどの平地がある。沖積土壌に覆われ、農耕に適している。専業農家は6世帯で、全世帯が小作である。このうち3世帯はそれぞれ5~8町歩(5.0~8.0ha)の土地を耕作している。 炭焼き窯が2カ所あり、農閑期に稼働している。

3人の村民が合わせて38頭の馬(すべて土産種)を所有し、一年中、官林に放牧している。

商業
村人たちは函館の業者と取り引きをしている。村内に小売店が2軒あるが、細々とした品物しか扱っていない。

教育
かつて庶野村尋常小学校の分校が猿留村にあったが、教員が見つからずに廃校になったという。1897(明治30)年7月、猿留尋常小学校が建設されたが、教員はまだ着任していないため、開校できていない。

宗教
1842(天保13)年、油駒場所請負人の杉浦嘉七氏が建てた稲荷神社が、1875(明治8)年に村社になった。