1899年の静内郡
1899年の静内郡 しずないぐん
地理
西側は新冠郡(にいかっぷぐん)と隣り合っている。北側は十勝国(とかちのくに)河西郡(かさいぐん)と新冠郡の北部に接している。東側は三石郡(みついしぐん)・浦河郡(うらかわぐん)と、十勝国東縁郡(とうぶいぐん)に隣接している。また南側は海に面している。静内郡の面積は49万方里(7557.3km2)あまりで、広いところで東西に11里28町(46.3km)、南北は11里20町(45.4km)の長さがある。海岸線は4里22町(18.1km)である。
北部からの山脈が隙間なくクネクネと延びてきて、南部に向かって徐々に高度を下げ、丘陵地形を形成している。野家村(のやむら)にそびえるチヌイヌプリ山は標高2419尺(733.0m)。このチヌイヌプリ山は、染退川(しべちゃりがわ)を挟んで、碧蘂村(るべしべむら)の東北に位置するチェプウシュヌプリ山と向かい合っている。また、新冠郡との境界付近には笹山(ささやま)が、三石郡との境界付近にはシャマッキ山がある。
染退川は、上流域ではシュムペツ川と呼ばれ、日高山脈に源流をもつ。たくさんの渓流を飲み込みながら、北側から野家村に入ってメナシシュペツ川と合流。南向きに流れて下下方村(しもげぼうむら)の海岸に到達する。染退川の長さは17里21町(69.1km)、川幅は河口部で70間(127.3m)である。河口から数里(8~12km)の区間は小型船舶の航行は可能だろう。
メナシュペツ川もまた日高山脈に源流があり、コイカクシュ川、シピチャリ川、パンペツ川などの渓流を合わせた後、東側から染退川に合流している。捫別川(もんべつがわ)の源流は三石郡との郡界付近の山脈にあり、佐妻村(さめむら)・婦蟹村(ふかにむら)を通過した後、捫別村から海に注いでいる。シャマッキ山から流れてくる布辻川(ぶしがわ)は、静内郡と三石郡の郡境界になっている。布辻川は春立村(はるたちむら)から海に流れ込んでいる。静内郡内にはこのほかにも有良川(うらかわ)、ウセナイ川などの小河川がある。
静内郡は南北に長く、東西に短い形をしている。中央部がとても狭く、それに比べると、南部と北部は幅が広くなっていて、魚の尾ビレに似た形をしている。染退川が二股になるところから北側の地域は、高度が上がって山々が重なり合い、平地はない。野家村から南側のエリアは、染退川沿いに3里(11.8km)ほどの平地が見られ、きれいな農地が広がっている。捫別川の岸沿いには2里(7.9km)にわたって細長い平地があるが、山側は湿地が多い。布辻川沿いの平地は1里(3.9km)あまりで規模が小さい。地表から2~3尺(61~91cm)ほどの深さまで砂が堆積していて、その下に腐植土の層がある。湿原は厚さ4~5寸(12~15cm)の腐植土の下層に、3~4寸(9~12cm)の火山灰の堆積がみられ、耕作は無理だが牧場用地には適している。
河畔にはアカダモ、ヤチダモ、カエデ、カツラなど、丘陵部にはミズナラ、カシワ、ハンノキなどが多い。内陸に進むにつれ、針葉樹が混じるようになる。
染退川氾濫源の西側、新冠郡との郡境界をまたぐ丘陵部は御料牧場に属している。染退川と捫別川に挟まれた台地には民間の牧場が設定されている。海岸線はすべて砂浜である。
海岸線に沿って国道が敷設されているが、ほとんどの区間が砂を踏み固めただけの道なので、馬車などは通行に難がある。とりわけ有良村(うらむら)の区間は山の斜面が海岸ギリギリまで迫っていて砂浜が狭く、波の高い日は通行止めになることがある。
下下方村と市父村(いちふむら)をつなぐ延長3里(11.8km)あまりの道は、1894(明治27)年に改修され、馬車でもスムーズに通行できるようになったおかげで、物流の利便性が大いに向上した。いっぽう、捫別村ー佐妻村(さめむら)間と、春立村(はるたちむら)―遠別村(とうべつ村)間にはそれぞれ道が1本ずつしかなく、しかも未完成で車両は通れない。
船は下下方湾に停泊可能である。ただし風や波を和らげてくれるような小島や岬はひとつもないので、天候に恵まれた日に、一時的に投錨できるだけである。それでも毎月、函館から定期船がやってきて、静内郡・新冠郡に物資を届けている。捫別海岸も船の停泊に適しているとは言えないが、静内郡東部では重要な拠点である。
静内郡は16の村に分かれている。染退川(しべちゃりがわ)に沿って下下方村(しもげぼうむら)・中下方村(なかげぼうむら)・上下方村(かみげぼうむら)・目名村(めなむら)・遠佛村(とうぶつむら)・市父村(いちふむら)・幕別村(まくんべつむら)・農家村(のやむら)・碧蘂村(るべしべむら)が並んでいる。また、捫別川(もんべつがわ)沿いに捫別村(もんべつむら)・婦蟹村(ふかにむら)・佐妻村(さめむら)が位置している。遠別村(とうべつむら)と音江村(おとえむら)は布辻川(ぶしがわ)ぞいにある。残る有良村(うらむら)と春立村(はるたちむら)は海沿いの集落である。
沿革
松前藩が支配していた時代には、この地域は静内場所と染退(しべちゃり)場所に分割されていた。静内場所は新井田伊織の「菜邑」(さいゆう、領地)、染退場所は蠣崎久吾・太田伊兵衛の二人が領有していた。どちらの場所も、阿部屋伝七が請負契約を結んで経営にあたっていた。1799(寛政11)年に幕府の直轄が始まると、二つの場所は一つに統合されて「静内場所」と呼ばれるようになった。場所請負契約を結んだのは、阿部屋伝次(1813(文化10)年~)と、佐野伝左衛門(1819(文政2)年~)である。1869(明治2)年にいったん増上寺の管轄下におかれた後、翌1870(明治3)年に徳島藩士・稲田邦植氏が管理者を務めた。1871(明治4)年8月から開拓使が所管するようになった。同じ1871年6月、稲田邦植氏と家臣ら130世帯あまり、男女合わせて約540人が(淡路島から)移住してきた。彼らは、捫別に建てた仮設の倉庫に持参の荷物をまとめて保管していたのだが、失火によりすべて失われてしまった。
翌1872(明治5)年、(開拓使は?)移住士民を下下方・中下方・上下方・目名・遠佛・捫別・有良の7カ村に再移住させ、計148棟の住宅を建てた。開拓使は以降3年間にわたって移民補助の政策をとった。同じ明治5年、浦河支庁静内出張所を設置。また、山田栄六氏が静内郡内の漁場6カ所の「漁場持ち」に決まった。1874(明治7)年、開拓使は静内出張所を廃止し、沙流出張所管轄に変えた。
1875(明治8)年、開拓使は山田栄六氏を解任し、6つの漁場を稲田家移民に共有漁場として「下付」した。また、別の昆布干場をアイヌに割り渡した。
同じ1875(明治8)年、下下方村に静内郵便局を設置。下下方村にはこの年の2月、静内出張所が設置されている。1876(明治9)年、静内分署を廃止して、(開拓使)札幌本庁の管轄下に。
1879(明治12)年7月、静内郡役所を勇払郡(ゆうふつぐん)に設置。1881(明治14)年、静内郡全村共通の戸長役場を下下方村に設置した。
1885(明治18)年、淡路国三原郡から53世帯の農民が碧蘂村に移住してきた。
1887(明治20)年、静内郡役所を浦河に設置。
1890(明治23)年、隣り合う遠佛村から下下方村にかけての染退川に延長2里(7.9km)あまりの堤防が建設され、水害を防げるようになった。この時期を境に移民が大幅に増え、開拓事業が進んだ。1897(明治30)年末現在の人口は716世帯、3576人である。
重要産物
静内郡は日高国で一番の農業地域であると同時に、沿海は漁業資源にも恵まれている。1897(明治30)年の水揚げは次のとおり。
品目 | 出荷量 | SI単位換算 |
---|---|---|
イワシ絞り粕 | 1570石 | 283.2m3 |
塩蔵サケ | 1720石 | 310.3m3 |
長切昆布 | 2000石 | 360.8m3 |
イワシ魚油 | 57石 | 10.3m3 |
カレイ絞り粕 | 777石 | 140.2m3 |
棒ダラ | 780石 | 140.7m3 |
サケ筋子 | 8250貫 | 4950kg |
その他、塩マス・ギンナンソウなど。
農産物生産量は次のとおり。
大豆 | 4846石 | 333m3 |
---|---|---|
小豆 | 2253石 | 406.4m3 |
静内郡は馬産地としても知られ、毎年数百頭の馬を輸出している。
概況
下下方村(しもげぼうむら)は、静内郡と西隣の新冠郡を合わせたエリアの中心地で、戸長役・警察分署・郵便電信局などが置かれている。捫別村(もんべつむら)は郡東部の要地であり、有良村(うらむら)など東側の村々の人たちは、捫別村の商店で日用品を調達している。有良村と春立村は漁業の町として有名である。その他は純然たる農村である。
アイヌはあちこちに集落を作って居住している。和人は、「原野」に散らばって暮らしている人が多い。上流階級・中流階級の地位を占めているのは稲田家の家臣だった人たち。碧蘂村の農民たちは倹約しながら仕事に努めている。
農地としての開発が非常に進んでいて、農業に適した土地はだいたい開墾済みで、条件の悪いところが未墾地として残っている。とりわけ染退川沿岸部は、日高国の中でも一番早く、明治の初頭には農業開発が始まって、最初期の移民たちは収入も多く、食べ物・着る物はもちろん、家構えや庭園にいたるまで、ほかの府県の住民に比べても遜色ないレベルである。とはいえ「資本豊か」とはいかず、どの世帯も業者からいくばくかの「仕込み(融資)」を受けて作付けし、秋の収穫期にその借金を返済する、というパターンが一般的である。
牧畜が非常に盛んで、牧場向けの貸付地は10カ所を越えている。この数は日高国のなかで最多だが、面積はそれぞれ20万坪(66.1ha)以下と、規模が小さいうえ、設備も整っていない。どこも熱心に経営されているとはいえず、繁殖も自然任せで、いたずらに駄馬を増やしているに過ぎない。牛を飼っている人は一人だけ。
漁業分野では、イワシ・サケの漁場が合わせて12カ所あり、瀬川芳蔵氏を筆頭に数人が所有している。このほか、小規模経営の業業者たちがタラ漁・カレイ漁・昆布採取に従事している。この漁業者にはアイヌが多い。
染退川・布辻川沿いに住んでいるアイヌは、身を持ち崩して飲酒を重ね、仕事に就いていない。おまけにずる賢くてウソをつき、持ち前の素朴さ・誠実さを完全に失ってしまっている。そんななか、捫別川沿いのアイヌだけはいくらか素朴で、昆布場で自営する人が多い。アイヌの女性は、飲酒する人は少ないのだが、礼儀作法を知らない。和人男性と一緒に暮らしている人も少なくない。アイヌの多くは農業で生計を立てようとしているが、自家用作物が中心で、漁場への出稼ぎやその他のさまざまな雇われ仕事をして糊口をしのいでいる。財産も知識も、和人に並ぶレベルのアイヌは数人しかいない。
郡内のすべての村が共同で経費をまかない、下下方村に村医を設置している。学校は郡内に4(5?)カ所あり、下下方村と碧蘂村に各1校ずつ、中下方村・上下方村・目名村・遠佛村の4村を合わせて1校、市父村・幕別村・農家村の3村をまとめて1校、有良村・捫別村・婦蟹村・佐妻村・春立村・遠別村・音江村の7村を合わせて1校が設置されている。これ以外の経済は新冠郡の村々と共同で運営されている。
1899年の下下方村 しもげぼうむら
地理
下下方村は染退川(しべちゃりがわ)下流部の西岸に位置している。東側は、染退川を挟んで有良村(うらむら)と向かい合い、西方はシンヌプ(山)によって新冠郡(にいかっぷぐん)高江村(たかえむら)と隔てられている。北方は中下方村(なかげぼうむら)に、また南側は海に面している。染退川は中下方村から流れこんできて、有良村との境界に沿って南向きに流れ、海に注いでいる。高江村との境界付近は丘陵が続いている。染退川の河畔はフラットな地形。海岸沿いに砂浜が発達している。もとの地名は「ピパウ」といい、(アイヌ語で)「沼貝」という意味。そのピパウが訛って「ケパウ」と呼ばれるようになった。
運輸交通
下下方村の海岸は、港湾の形状をしているとはいえないが、静内郡内を出入りする貨物のほとんどが下下方村を経由して運ばれることから、時々船がやってきて、なぎの場合は錨を降ろして、荷物を下ろしたり積み込んだりしている。村民の一人、金子忠蔵氏は帆船2隻を所有し、毎月、函館との間を往復している。1897(明治30)年の入港実績は帆船32隻、汽船11隻で、出港数も同数である。また輸入運賃は、汽船の場合で米100石(18m3)あたり42円50銭、帆船では27円50銭。輸出運賃は帆船で大豆・小豆100石あたり30円である。このほか、ハシケ手数料として100石あたり10円が必要。
沿革
この地には開拓使時代(1869年~1881年)以前から「番屋」や「休息所」が建っていた。1872(明治5)年、(徳島藩家老の)稲田邦植氏と家臣たち32世帯が移住してきて、開墾に着手した。同年8月、行政管理者が開拓使に移った。1875(明治8)年、移民向けの補助事業期間が終わり、農業だけでは移民たちの生活が成り立たなくなったため、(開拓使は)移民たちに追加的に漁場を与えて、農業と漁業の両方に従事させる政策をとった。その後、この土地を離れる人がいた一方、新たに移ってくる人もいた。
1881(明治14)年、戸長役場を設置。1886(明治19)年、警察分署を設置。同じ1886(明治19)年、土地払下規則が改正され、人々の新たな移入を大いに促して、村の規模が少し大きくなった。なかでも下下方村は静内郡の「ノド」に位置することから、自然と貨物の集積地になって、染退川沿いの村々が開発されるに従って商業規模が拡大した。1890(明治23)年~1891(明治24)年ごろには、ついに小規模な市街地が形成されるまでになった。
戸口
1897(明治30)年末の戸数は123世帯、人口は569人。このうちアイヌは24世帯で、アイヌの半数はふだんは別の村に住んでいる。出身地別では、兵庫県人が最も多く、このなかには稲田氏の家臣16世帯を含む。
集落
染退川の西岸、海岸からはおよそ3~4里(11.8~15.7km)の位置に、染退川の古川をまたぐように市街地が形成され、まちは「染退」と呼ばれている。数十軒の家が互いに接しあっていて、三叉路がある。ホテルが6軒、呉服(キモノ)・荒物(雑貨)・小間物を扱う商店が7軒ある。醸造所2軒、質店1軒、鍛冶屋2軒、また食堂や飲食店、理髪店、小売商店がある。警察分署、戸長役場、郵便・電信局、小学校、村医、駅逓など、公共施設はすべてこの集落に置かれている。
漁業
ここは古くからサケ産地として有名である。イワシの水揚げも多い。昆布漁・タラ漁・カレイ漁は行なわれていない。1897(明治30)年の漁業状況は以下の通り。
イワシ曳き網 | 2カ統 |
---|---|
サケ曳き網 | 4カ統 |
サケ建て網 | 2カ統 |
サケ巻き網 | 3カ統 |
1875(明治8)年、稲田家ゆかりの移住者たちが、静内郡内の漁場6カ所の「割り渡し」を受けた。移住者たちは経営資金を借り集めて漁業に乗り出したが、技術がともなわずに不漁が続き、損害が毎年積み重なって、1881(明治14)年の負債額は1万6700円あまりにまで膨らんだ。彼らが打開策を見いだせないまま、6カ所の漁場すべてを(稲田家家臣のひとりである)瀬川芳蔵氏が個人で引き継いだ。瀬川氏はその後、すべての負債を完済した。瀬川氏は現在、イワシ・サケの建て網・曳き網合わせて10カ統以上を所有する日高国内屈指の有力漁家である。
農業
稲田家ゆかりの移住者たちは当初、真剣に農業に取り組む人はおらず、せいぜい自家用の穀類や野菜類をつくるだけだった。1876(明治9)年ごろ、少量ながら大豆・小豆の出荷が始まり、明治16~17(1883~1884)年ごろから本格化している。農業に適した土地はすでに開墾され尽くしている。作物は大豆・小豆が中心で、このほかムギ、キビ、ソバキビ、バレイショ、トウモロコシなどは自家消費向け。
牧畜
村全体で325頭の馬が飼育されている。沼田富治郎氏が81頭、伊勢市蔵氏が80頭をそれぞれ所有して、村内で最多の飼育数である。近くの村で放牧しているほか、農家やアイヌに預託している。
日高馬市会社
1888(明治21)年創設。地元で非常にたくさんの馬が生産されているのに、販路が少ないうえ、馬の評価が低いために価格も低迷している。このままでは業界が衰退してしまうという危機感から、販路を広げ、品種改良を促すためにこの会社がつくられた。1889(明治22)年以降は、新冠御料牧場生産馬の取引を請け負うようになり、事業が少し上向いた。1892(明治25)年、馬の価格が暴落し、会社もダメージを被って窮地に陥ったが、征清役(日清戦争、1894~1895年)の後、今度は馬の価格が暴騰し、取引量も増えて、会社の業績は回復した。とりわけ1897(明治30)年は非常に盛況だった。株式会社であり、現在の株数は110株、資本金は1100円である。毎年8月15日から10日間にわたって馬市を開催し、日高国内各郡から集めた馬を競売にかけている。取引実績は1897(明治30)年が474頭・2万4153円あまり、1898(明治31)年が289頭・1万1939円だった。販売先は、北海道内では石狩国(いしかりのくに)が最多、また北海道外では宮城県・福島県・岩手県・青森県と陸軍が最も多かった。
製造業
鍛冶屋が2軒あって、和式・洋式、両方の農機具を製造している。2社を合わせた年間生産数は、プラオ30台、ハロー10台、カルチベーター10台ほどである。酒造業者が2軒あり、製造量は清酒340石(6万1336リットル)、濁り酒28石(5051リットル)、焼酎5石(902リットル)。
商業
当初、淡路島(稲田家)からの移住者と一緒にやってきた竹内氏が店を開き、アイヌを相手に漆器類とシカ皮などを交換する商売を始め、少しずつほかの品物を売り始めた。呉服(キモノ)・太物(普段着)・小間物などは行商に依存するほかなかったが、1876(明治9)年、稲田家ゆかりの人々の中から有志たちが集まって「マルロク(丸印に漢数字の六)商社」を設立し、米や味噌を扱い始めた。同社はしかし数年後に閉店した。1882(明治15)年、金子忠蔵氏が商店を開き、呉服・太物・日用品の販売を開始。農産物の買い入れも始めた。その後、開拓が進むつれて各地から商業者が集まるようになり、函館との取り引きも活発化している。現在は、呉服・太物・小間物類は東京と函館、米・味噌・荒物・酒などは函館で、それぞれ業者の買い入れた物資が、静内郡・新冠郡で販売されるいっぽう、これらの業者が郡内で仕入れた農産物が函館方面に輸出されている。村内の物価は浦河村に次いで安い。立派な商店が数軒あり、なかでも金子忠蔵氏の商店は日高国内でも屈指の商家で、つねに数万円の資本が動いている。アイヌの■■足氏の商店は、おもにアイヌたちの「仕込み」を請け負って一時は繁昌していたが、〈管理者其人ヲ得サルカ為メ大ニ衰ヘリ〉【現代語に未翻訳(平田剛士)】。
1897(明治30)年の下下方湾からの主要な輸出品は、イワシ絞り粕、塩サケ、昆布、カレイ絞り粕、魚油、大豆、小豆など。輸出総額は13万1000円あまりだった。輸入品は米、味噌、荒物、呉服、石油、砂糖、そのほかの日用品など。輸入金額は11万9400円あまりだった。
経済状況は、毎年4月~8月が逼迫期で、9月以降に農産物の収穫が始まると余裕が生まれる。1カ月間の金利は2分5厘(普通貸借の場合)。
地価
市街地での土地の売買事例が最近はほとんどないので正確な地価は不明だが、およそ50銭~1円50銭/坪(=3.3m2)といわれている。畑地は5円~12円/反(9.9a)である。
木材・薪炭
農家への「貸付地」が薪炭材の供給源である。また建築用材(角材)は染退川上流域の山林から切り出されている。価格は薪1敷が1円20銭、木炭1俵(7貫目=26.25kg)が28銭。トドマツ材100石(18m3)が50円。
風俗/人情
和人は仕事熱心で、性質も穏やかである。家屋の建築様式や人々の風俗をみても、新開地だという感じは少しもしない。
アイヌは最悪のだらしなさで、酒ばかり飲んで仕事を怠けている。「染退アイヌ」といえば非常にずるがしこい、とだれでも知っている。また比較的、和人との混血者が多い。
生計
村民たちは商業や農業、またその他の仕事に就いている。ここは利便性が高いので、生活に困っている人はいない。アイヌは「雑業」をしていて定職を持たず、だいたいが貧困者である。
教育
1893(明治26)年に下下方尋常小学校開校。現在の生徒数は51人、補習科19人である。アイヌの就学生は4人だけである。
衛生
静内郡共同の村医が一人いる。この地方では毎年、間歇熱の患者が出ている。アイヌには梅毒や疥癬、そのほかの皮膚病患者が多いそうだ。
宗教施設
1868(明治1)年、佐野伝左衛門氏によって蛭子神社が建立された。この神社は1876(明治9)年、「村社」に指定された。
1892(明治25)年、真宗大谷派の浄運寺が創設された。
1899年の中下方村 なかげぼうむら
地理
東側は染退川に接している。西方は丘陵地帯が迫っている。北部は上下方村(かみげぼうむら)と境界を接している。ここ中下方村は、染退川の西岸に位置する小さな村で、ビハウ川が染退川に合流している。下下方村(しもげぼうむら)の市街地から11町(1.2km)しか離れておらず、便利である。
沿革
古くからアイヌの集落があった。1872(明治5)年、稲田邦植氏の家臣たち7世帯がこの場所に移住してきた。1884(明治17)年ごろから開拓事業が進みだしている。
戸口
1897(明治30)年末の世帯数は33世帯、人口は212人である。このうち5世帯は稲田家家臣、また2世帯はそこから「分家」した人々である。アイヌは23世帯。和人世帯は沿道に、それぞれ距離を置いて住んでいる。(和人世帯の)家屋や庭は、他の府県の農家と比べても、むしろグレードが高く見えるケースもある。
農業
1872(明治5)年、稲田家家臣たちが移入してきたのだが、当初は自分たちが食べるためのムギ、キビ、アワ、また野菜類を作付けするだけだった。1884(明治17)年ごろから少しずつ耕作地が増えだして、現在は1戸あたり5町歩(5.0ha)~30町歩(29.8ha)と規模が拡大している。アイヌたちは、近ごろは農業が収入につながると理解するようになったものの、まだ「精励」するまでにはなっていない。
主な生産物は大豆と小豆。このほかハダカムギ、キビ、ヒエなどが自家消費用として作付けされている。
近年は地力が低下していて、輪作に切り替える必要があると考えて、アブラナの試作を始めた農家もいる。村内でこれまでに開墾された面積は合計157町歩(155.7ha)だという。また村内計52頭の馬が飼養されている。10頭以上の馬所有者いない。
風俗・人情・家計
和人たちは農業を生業にしている。このうち初期の入植者たちは衣食住にぜいたくな傾向がある。アイヌは茅葺きの家屋に住み、ずる賢く、野蛮で下品である。
1899年の上下方村 かみげぼうむら
地理
南側は中下方村(なかげぼうむら)と、北側は目名村(めなむら)と、それぞれ隣り合っている。染退川の西岸に位置していて、下下方村からは1里(3.9km)の距離で、とても便利である。
沿革
古くからアイヌの集落があった。1872(明治5)年、稲田家の家臣たち18世帯が移住してきたのが「開拓」の始まりである。
戸口
1897(明治30)年末の世帯数は54世帯、人口は245人である。このうち8世帯が稲田家家臣、3世帯がそこからの「分家」である。アイヌ21世帯とそのほかの移住者世帯が村落を構成している。
農業
土地は肥えていて、村人たちは農耕に精を出している。景況は中下方村と同様である。
牧畜
字シンヌツに服部久之助氏が経営する馬牧場(7万坪=23.1ha)がある。同じシンヌツには山本高蔵氏の牛牧場(9万1000坪=30.1ha)もある。どちらも注目すべきことはない。村内の馬数は計136頭である。
商業
小売店が1軒ある。
教育
1872(明治5)年、稲田邦植氏がこの地に「目名教育所」を設立した。1876(明治9)年、郡内の人々から集めた寄付金150円で校舎を補修。1879(明治12)年に現在の「高静尋常小学校」と名前が変わった。
1880(明治13)年、アイヌの子どもたちに衣類・食事・筆記用具を支給して「保護」を奨励したことがあった。当時のアイヌの生徒数は18人。その後「保護」事業が廃止されるとアイヌの生徒は減った。現在は中下方村・上下方村・目名村・遠佛村(とうぶつむら)の4つの村の組合によって学校が運営されていて、生徒数は74人(うちアイヌは9人)、教員1人である。
宗教
神武天皇社は、1871(明治4)年、稲田邦植氏が従者たちとともに移住してきた時、「郷社」として建立した。
1899年の目名村 めなむら
地理
東側は染退川に面している。南方は上下方村(かみげぼうむら)、北側は遠佛村(とうぶつむら)と隣り合っている。西方は丘陵地帯を挟んで新冠新冠御料牧場につながっている。メナと呼ばれる細い川が流れていて、村の名前になった。下下方村からは1里(3.9km)の距離。道路は平坦で、馬車も自由に通行できる。
沿革
このあたりは昔からアイヌの集落で、1796(寛政8)年、「シャムシャインの乱」が起きた時、ここに住んでいた金丁文四郎という人物が数百人の「山丁」を動員した、と伝わっている。
1872(明治5)年、稲田邦植氏とその家臣30世帯あまりがこの村に移住してきて、開墾にとりかかったが、1875(明治8)年に開拓使が補助事業を打ち切ると、人々は故国に戻ったり、ほかの場所に移出したりして、稲田家ゆかりの村人は現在はわずかに13世帯が残っているだけである。
戸口
明治30年末現在の人口は55世帯、214人である。このうちアイヌは21世帯、108人である。和人は稲田家の元家臣たちと、淡路国から移住してきた農民たち。和人は道路沿いに互いに離ればなれに居住している。アイヌは河畔に居住している。
農業
上下方村と変わらない。1879(明治12)年、目名村など4か村(下下方村・中下方村・上下方村と目名村)への移住者たちに、稲田邦植氏が現金2500円を貸し与えてアイ(藍)の生産を奨励し、ここ目名村に藍染め工場〈藍靛製造所〉を建設した。八田楠逸氏が工場長を務めたが、数年経っても業績が上がらず、工場は廃止になってしまった。
牧畜
メナ山に八田満次郎氏の所有する牧場があり、面積は23万坪(76.0ha)。沙流郡内の牛が冬期間、ここに連れてこられている。目名村内では計87頭の馬が飼育され、ほとんどが農耕馬である。
1899年の遠佛村 とうぶつむら
地理
東側は染退川を挟んで碧蘂村(るべしべむら)と隣り合っている。南側は目名村(めなむら)、北側は市父村(いちふむら)と隣接している。西方は御料牧場である。染退川河畔の平地は痩せている。村名の「トーブツ」は(アイヌ語で)「沼の口」という意味。下下方村(しもげぼうむら)から1里25町(6.7km)の距離。交通の便はよい。
沿革
昔からのアイヌの集落である。1872(明治5)年、稲田邦植氏の家臣たち20世帯あまりが移住してきて「開拓」がスタートしたが、この時の移民たちの多くは(故郷に)帰国したり、他の場所に移っていったりして、現在まで残っているのは5世帯に過ぎない。
戸口
1897(明治30)年末現在の世帯数は69、人口は302人である。このうちアイヌは35世帯。和人は兵庫県出身者が最多である。和人たちは沿道に互いに離れて住んでいる。小売店が2軒ある。アイヌたちは2カ所に分かれて集落をつくって住んでいる。
農業
和人世帯は、1世帯あたり5~10町歩(5~10ha)の畑で作付けしている。大半は自作農である。アイヌの土肥政彦氏はおよそ10町歩(10ha)を耕作している。しかしそれ以外のアイヌたちは、1世帯あたり3~4反(30~40a)ないし1~2町歩(1~2ha)の面積を耕作するにとどまっている。全村合わせて137頭の馬が飼養され、スキを引かせたり、馬搬に使われたりしている。そのうち50頭あまりが土肥政彦氏の所有馬である。
1899年の碧蘂村 るべしべむら
地理
西方は、染退川を境に遠佛村(とうぶつむら)・市父村(いちふむら)と隣り合っている。東側は丘陵地帯を挟んで佐妻村(さめむら)と並んでいる。北方には山岳地帯、南側は有良村(うらむら)である。南北に細長く、東西は狭い形をしている。村の南部は土が肥えているが、北方は湿原が多い。
運輸交通
染退川を渡っていったん遠佛村に出てから下下方村に向かうルートしかない。この間およそ3里(11.8km)である。
沿革
昔からアイヌの集落があった。1885(明治18)年、淡路国(あわじのくに)三原郡からの移住者たちが入ってきて「開拓」を推進し、現在では郡内に冠たる農業地帯である。
戸口
1897(明治30)年末現在の人口は79世帯、402人。このうちアイヌ人口は22世帯、129人である。和人はほぼ全員が淡路国出身者で、ルペシュペ地区に集まって住んでいる。アイヌはあちこちに離ればなれに住んでいる。
農業
1885(明治18)年、淡路国から50世帯あまりの人たちが移住してきて、この村で「開拓」に乗り出した。そのストーリーを記しておこう。
この移住者たちは日蓮宗の信徒33世帯のグループで、厳格な誓約を結んで渡辺伊平氏をリーダーとし、1885(明治18)年4月、グループ外の20世帯あまりの移住者と一緒に、この村に入った。当初はペラリ地区への入植を計画していたが、土地が痩せていたのでルペシュペ地区との交換を申請して、こちらに変更した。そのルペシュペ地区は、土壌こそよく肥えていたものの、カツラ・ナラ・ハンノキなどの大木が空を覆い隠すほどうっそうと茂っていて、開拓が困難なことは明白だった。そのため、日蓮宗グループ以外の20世帯あまりの人々は、ばらばらにいなくなってしまった。しかしグループ33世帯の人々はみじんも苦にせず、淡々と開墾に励み、初めの3年間は自分たちが食べる分を作るだけだったが、4年目にようやく大豆・小豆を出荷できるようになった。ところが5年目の7月中旬に襲った遅霜のせいで反収1~2斗(18~36リットル)の凶作を被ってしまう。移住のさいに持参してきたお金はすでに使い切っていて、飢餓の一歩手前まで追い詰められた人々は、別の場所に移るか、そのまま解散するしかない状況におちいった。戸長から緊急事態の報を受けて、〈官〉(北海道庁)が村人たちにコメなどを貸し与えることになったのだが、グループのリーダーは「おかみからの支給米を受け取ったら、村人たちの気力が緩んでしまって、またいつか同じような状況になった時、かえって自分たちの不利益になってしまいかねない。返還期日がきても滞納してしまう恐れもある。たとえ草の根や木の葉を食べることになっても、餓死者は出さない」という理由をつけて、この政府援助を固辞した。村人たちは苦しみながら窮乏をしのぎ切り、次の入植6年目はたいへんな豊作だった。人々は多少の余裕もできて、「前年に〈官米〉を受け取らなくて良かった」と喜び合った。それ以降、〈拓殖〉事業はまるで馬が走るように速く進むようになった。
現在(1898(明治31)年)の主要産物は大豆と小豆。1892(明治25)年からアイ(藍)の生産が始まったが、1897(明治30)年ごろに中止された。また現在、10町歩(9.9ha)の水田がつくられ、反収1石(180.4リットル)~1石8斗(324.7リットル)と、将来が非常に有望視されている。1897(明治30)年、初めてアブラナが試験栽培され、1反(9.9アール)あたり1石2斗(216.5リットル)の成績だったという。全世帯が農耕馬を利用し、耕作面積は1世帯あたり6~7町歩(6.0~7.0ha)。
アイヌは自家用の作付にとどまり、農産物を販売している人はまれ。日蓮宗グループは、メンバーの個々人が自分で農産物を販売するのを禁じ、集荷物をまとめて競争入札にかけたり、函館方面に直送したりしている。
牧畜
村内では合計230頭の馬が飼養されている。最もたくさんの馬を所有しているのは西田米三郎氏と渡辺伊平氏で、それぞれ20頭あまりを所有している。農耕馬は牧舎飼い、そのほかの馬は放牧である。ペラリ地区に村の共同牧場があり、その面積は45万坪(144.8ha)である。このほか、遠佛村共有牧場(約25万6000坪=84.6ha)、目名村と上下方村(かみげぼうむら)の共有牧場(約5万2000坪=17.2ha)、(アイヌの)■■足氏の牧場(約35万坪=115.7ha)がここ碧蘂村に設定されているが、どの牧場も未整備である。
風俗・人情
日蓮宗グループは熱心な仏教の信者たちで、互いに親睦を深め合い、勤勉・倹約の暮らしを貫いている。アイヌたちの状態は、前述したほかの村々のアイヌたちと同様である。
生計
和人たちは全世帯が農業を生業としている。人々は勤倹(勤勉で倹約に努めているようす)で、貧困者はいない。アイヌたちは、少しばかりの畑をつくっているほか、(和人の)農家や漁家に雇われて暮らしを立てているが、非常に困難な状態にある。
教育
1898(明治31)年、碧蘂尋常小学校が新築され、同年11月に開校した。碧蘂村単独自営の学校である。
社寺
無格の神社がひとつあり、天照大神(あまてらすおおみかみ/あまてらすおおかみ)が祀られている。また日蓮宗の寺院が一つある。
1899年の市父村 いちふむら
地理
東方は幕別村(まくんべつむら)、南側は遠佛村(とうぶつむら)と隣り合っている。東側は染退川に面していて、西方の丘陵部は御料牧場のエリア内である。元の名前「チビエプ」は(アイヌ語で)「私生児」を意味する。かつてこの場所に住んでいた和人男性たちが、アイヌの既婚者を含む女性たちと関係を持ち、“私生児”が増えたことに怒った先住民(アイヌ)が、集落をこのような悪名で呼ぶようになった、といわれている。
運輸・交通
下下方村(しもげぼうむら)までは3里18町(13.8km)。道はフラットで、馬車も自由に通行できる。
沿革
古くからアイヌの集落がある。新冠牧場(1872(明治5)年開設、新冠御料牧場の前身)の開設にともなって、雇われた労働者たちがこの村にもやって来たが、定住した人はいない。1883(明治16)年、福岡県出身の中川時太郎氏ほか5世帯が農業を目的に新たに移住してきた。染退川流域の先輩入植者たちのサポートを受けながら土地の開墾を始めた矢先、同年10月に発生した洪水氾濫によって、作物だけでなく家屋まで流失してしまい、2世帯は撤退、残った人たちも牧場の雇い仕事で、なんとか食いつないだ。1887(明治20)年ごろから少しずつ移住してくる人が現れ、現在は10世帯あまりの農家と、新冠御料牧場の管理人・従業員たちが住んでいる。巡査駐在所、小学校などもある。
戸口
明治30年末現在の人口は、新冠新冠御料牧場従業員を除いて32世帯、257人である。このうちアイヌは21世帯。
集落
甲申(きのえさる/こうしん)坂の下に小学校、巡査駐在所、ホテル、小売店などがある。ヌツカの高台にアイヌの集落がある。そのほかの農家は川沿いの低地にそれぞれ離れて住んでいる。
農業
染退川沿いの低地に合わせて50町歩(49.6ha)あまりの農地がある。大豆・小豆のほか、御料牧場向けの飼料作物のタネを播いて育てている。農家1世帯あたりの所有面積は3反歩(0.3ha)~5町歩(5.0ha)である。ここ市父村から北部地方に住んでいるアイヌたちは、遠佛村以南のアイヌたちに比べれば土地のありがたさを知っていて、農業に力を入れている。1898(明治31)年の洪水は、すでに開墾済みだった農地のほとんど全域に被害を及ぼし、このうち半分ほどは表土が流出して元の荒れ地に戻ってしまった。被災者たちは、新冠新冠御料牧場エリア内のヌツカ地区で耕作適地を貸し付けてほしい、と申請している。
牧畜
この村には御料牧場の事務所が置かれているが、前述の理由(?)によって〈茲(ここ)ニ贅セス〉(現代語未訳)。村民たちは計53頭の馬を所有し、耕耘や運搬作業に使役している。
風俗・人情
和人については、特記事項なし。ここ市父村以北の3村(市父村・幕別村(まくんべつむら)・農家村(のやむら))のアイヌたちは、遠佛村以南のアイヌたちに比べれば、少し素朴で実直な性質なのだが、ときおり〈悪風〉に感化されて、1897(明治30)年5月から現在までの間に、馬ドロボウ1人、賭博犯2人、殴打犯1人が検挙されている。また、御料牧場の労働者など、従来から村を出入りする人(男性)が多いため、アイヌ女性たちとの間に〈私生児〉をもうけるケースが少なくない。最近も数人のアイヌ女性たちが〈離縁〉を強いられ、薄情な和人男性たちに対する怨嗟の感情が高まっている。いま現在、和人男性と一緒に暮らしているアイヌ女性が、3つの村を合わせて10人以上いる。
生計
和人たちは農業を生業とするかたわら、新冠御料牧場の仕事も受けている。アイヌたちは農業に従事したり、御料牧場での雇用労働、漁場への出稼ぎなどで生活を立てている。御料牧場の給料は男性35銭、女性22銭(いずれも日当)。
教育
1892(明治25)年、高静尋常小学校・市父分校が開校し、市父村・幕別村・農家村の3村組合が運営している。市父村からの通学生が多い。現在の在校生徒数は27人、うち2人はアイヌである。
孵化場
甲申坂のふもとに湧き水があり、厳冬期にも凍結しない。1888(明治21)年、静内郡漁業組合がこの場所に人工孵化場を建設し、その後、多少の人工孵化を行なったが、1897(明治30)年に休止が決まった。
1899年の幕別村 まくんべつむら
地理
南側は市父村(いちふむら)と隣り合っている。東側を染退川(しべちゃりがわ)が流れていて、北方は農家村(のやむら)と接している。この村は大半が新冠(にいかっぷ)御料牧場のエリアに含まれ、平地は染退川沿いに少しだけしかない。幕別川(まくんべつがわ)という川が流れていて、この川の名前が村名になった。市父村までの距離は10町(1.1km)である。
概況
1897(明治30)年末現在、アイヌ14世帯、111人が暮らしている。和人は、新冠御料牧場の労働者を除いて3世帯である。農耕が行なわれているのはアイヌ給与地である。このほか、御料牧場内の畑地を借りて耕作している人がいる。村民たちは農業で生計を立て、アルバイト的に御料牧場の仕事を受けている。これまでに開墾が終わった面積は村全体で50町歩(49.6ha)あまり。馬22頭が飼養されている。
1898(明治31)年の水害で開墾地のほとんどで表土が流されてしまった。生活の術を失った村民たちは、御料牧場内の農地を貸し付けてほしいと要望している。村人たちの風俗・人情は「市父村」のページで述べた通り。
石炭
幕別川の近くで石炭が見つかっている。石炭層は厚さ3~4尺(91cm~121cm)ほどで、明治のはじめころ、試掘した人がいたが、1年で撤退した。1891(明治24)年以降も何人かが試掘許可を取得しているが、まだ実施されていない。
1899年の農家村 のやむら
地理
幕別村(まくんべつむら)の北側、染退川(しべちゃりがわ)の上流域に位置している。村全体が山岳地帯で、森に覆われている。染退川下流域の村々はほとんどの建築材を農家村に依存している。染退川沿いに狭い面積の平地がある。下下方村(しもげぼうむら)までは3里26町(14.6km)。
概況
農家村はアイヌの集落である。世帯数は17、人口106人。このほかに和人3世帯が住んでいる。人々は農地を耕しつつ、新冠御料牧場の雇用労働にも従事して生計を立てている。村全体で65頭の馬が飼養され、すでに開墾の済んだ農地の面積はおよそ40町歩(39.7ha)。1898(明治31)年の洪水で、その面積の半分以上が被災した。■■■氏というアイヌは、8町歩(7.9ha)を耕作し、20頭以上の馬を所有している。村人たちの風俗・人情などは市父村(いちふむら)のページの説明と同様である。
砂金
1897(明治30)年、染退川上流で砂金の採取許可を取得した人が3人いる。「借区人」は「入場料」として上等地6分、普通地5分(いずれも月額)の砂金を納付しなければならない。「借区人」は、希望者に自由に砂金を採取させ、砂金1匁(3.75g)につき4円のレートで買い上げている。1897(明治30)年は5月末から10月までの間に、約20人の採取者が現場に入り、1貫500匁(5.63kg)の砂金が採れたという。
1899年の有良村 うらむら
地理
西方は染退川(しべちゃりがわ)を挟んで下下方村(しもげぼうむら)と隣り合っている。東側はタンネトゥを境に捫別村(もんべつむら)に面している。北方は山岳地帯、南方は海である。山・嶺・丘陵が重なる地形で、フラットな土地はウララ川やウセナイ川の川沿いにわずかな面積しかない。海岸線の長さは2里(7.9km)。沿岸のうち西側は波が高い日は通行できなくなる。
運輸・交通
西に行くと下下方村、東には捫別村(もんべつむら)の市場がある。道は良くないが、不便とは感じられない。
沿革
昔からアイヌの集落があり、また場所請負人が支配する漁場が設けられていた。1871(明治4)年、稲田家の元家臣たちの数世帯がウララ地区に移住してきたが、その後に全員が撤退した。1887(明治20)年ごろから移住者が少しずつ増加し始め、ウセナイ地区とウララ地区などに住んでいる。
戸口と集落
1898(明治31)年末現在の人口は54世帯、296人。このうちアイヌは38世帯である。実際の世帯数はこの数字より多い。村人たちはウララ集落、ウセナイ集落、ホイナシリ集落の3つの集落に分かれて住んでいて、ホイナシリ集落とウセナイ集落には漁家と小売店などがある。ウララ地区はアイヌの集落で、数世帯の和人も住んでいる。
漁業
静内郡の中で、漁業による利益が最大なのが、この有良村である。1897(明治30)年現在の漁業状況は以下の通り。
イワシ曳き網 | 2カ統 |
サケ建て網 | 3カ統 |
サケ旋網 | 1カ統 |
マス建て網 | 2カ統 |
タラ・カスベ漁向け川崎船 | 4艘 |
タラ・カスベ漁向け持符(もちっぷ) | 10艘 |
カレイ漁向け川崎船 | 2艘 |
カレイ漁向け持符 | 8艘 |
昆布採取船 | 9艘 |
漁業労働者は和人とアイヌである。昆布漁の経営者はほとんどがアイヌである。
農業
有良村には農業に適した土地が少ない。ウララ地区とウセナイ地区の2カ所で、合わせて約10世帯の和人農家が農業に従事している。そのほぼ全世帯が小作で、小作料は35銭~60銭/反(9.9a)。アイヌは、2~3町歩(2~3ha)を耕作している2~3世帯を除けば、他の人たちは自家消費向けの食べ物を作付しているにすぎない。
牧畜
有良村内の丘陵部は牧畜に適している。いくつかの牧場敷地が隣り合わせに設定されているが、どれも小規模で、注目すべきことはない。1897(明治30)年末の調査結果は以下の通りだが、全頭がこれらの牧場で飼育されているわけではない。
地名 | 地積(坪) | 面積(ha) | 許可年月日 | 内国種(頭) | 雑種(頭) | 牧場主 |
ポルナイ | 97500 | 32.2 | 1897(明治30)年6月 | 41 | 25 | 在田一 |
ウララプト | 90000 | 29.8 | 1891(明治24)年4月 | 43 | 6 | 八田恒蔵 |
ルスポル | 97500 | 32.2 | 1891(明治24)年1月 | 22 | 稲田邦衛 | |
馬歌山 | 180000 | 59.5 | 1887(明治20)年9月 | 40 | 22 | 友成又五郎 |
商業
村内にも数軒の小売店があるが、村民たちは下下方村や捫別村で買い物をしている。
生計
和人たちは農業や漁業で生計を立てている。アイヌたちは、農業のかたわら、漁業労働者として、または和人から融資を受けて、タラ・カスベ釣り漁、昆布採取などをして暮らしているが、生活水準は低い。
1899年の捫別村 もんべつむら
地理
東側はハシュツナイ川を挟んで春立村(はるたちむら)と隣り合っている。西隣は有良村(うらむら)、北側は婦蟹村(ふかにむら)である。南方は海に面している。村の東北部は丘陵地形。村の西部を流れる捫別川沿いに、狭いながらもフラットな土地がある。婦蟹村方面から流れてくる捫別川は、村の中央を流れて海に注いでいる。河口付近の川幅は約10間(18.2m)だが、橋が架かっているので通行に支障はない。「捫別」の名前はアイヌ語の「モペツ」から。「静かな川」という意味だが、別の説によると、この地方は昔から感染症が発生したことがなく静かで穏やかなことから、この地名がついたのだという。
運輸・交通
捫別湾はとても小規模だが、船舶が停泊するには、むしろ下下方(しもげぼう)湾よりも使いやすい。函館との間を行き来する輸送船が貨物を運んでいる。陸上輸送の場合、下下方村からの距離は2里17町(9.7km)。郵便局がある。
沿革
場所請負制の時代には、元静内(もとしずない)地区に「会所」が置かれていた。この会所は安政年間(1854~1859年)に捫別地区に移設されている。会所のほか、勤番所・常備倉・うまや・〈土人雇小屋〉などもここに設置されていた。1869(明治2)年、この地方(静内郡(しずないぐん))を増上寺が管轄することになり、チノミ地区に寺院が建設された。当時は、漁業施設のほかは、西田長四郎という人物が小売商店を開き、畑作をして定住していただけだった。1871(明治4)年、管轄者が(徳島藩の家老だった)稲田邦植氏に変わり、(稲田氏の家臣からなる)移住者たち全員が、いったんこの地区に送り込まれてきた。移住者たちの多くはそこからさらに染退川沿いの各地に移っていったが、20世帯ほどがそのまま捫別村に残留した。その残留組の人たちもやがて大部分が離散していったが、反対に、新しく移住してくる人もいた。移入者数は1890(明治23)年~1891(明治24)年ごろからいちじるしく増加し、現在ではちょっとした市街地が形成されている。
戸口
1897(明治30)年末現在の人口は52世帯、187人である。このうちアイヌは18世帯。和人は兵庫県出身者の割合が一番高い。稲田家臣をルーツに持つ人は4世帯である。
集落
捫別川河口の東岸に位置する捫別地区に商店6軒、漁家6軒、鍛冶屋1軒、ホテル2軒、醸造所1軒がある。また静内郡漁業組合事務所、巡査駐在所、小学校などもこの地区にある。捫別地区以外では、漁民・農民・アイヌたちが、捫別川沿いや海岸近くに、互いに距離をとって暮らしている。
漁業
イワシ・サケ漁が中心で、マス・タラ・カスベ・カレイ・昆布漁などが行なわれている。イワシ・サケ漁は和人が経営し、昆布とタラ漁には和人経営者もアイヌ経営者もいる。川崎船漁業者には函館方面からやってきた人が多い。1897(明治30)年の概況は次のとおり。
イワシ曳き網 | 1カ統 |
イワシ巻き網 | 1カ統 |
サケ建て網 | 1カ統 |
サケ巻き網 | 1カ統 |
マス建て網 | 2カ統 |
タラ・カスベ漁川崎船 | 6艘 |
タラ・カスベ漁持符(もちっぷ) | 8艘 |
昆布は生育量が多くないので、採取できる期間が非常に短い。
農業
捫別川沿いには湿原が多い。ほとんどが火山灰を含んでいて、上流部に比べると土地は痩せている。土地の大半は商人が所有する貸付地であり、農業をしている人の多くが小作者である。アイヌたちは全員が多かれ少なかれ農業に従事しているが、すごく熱心に取り組んでいる、という人はいない。
牧畜
村全体で188頭の馬が飼養されている。チェポツナイ地区とポロナイ地区をまたぐかたちで、面積29万8000坪(98.5ha)あまりの「木村共同牧場」が開設されている。土地は有償貸付地。村人が所有する馬を預かって放牧している。1頭あたり6銭の預託料収入で経営されている。
商業
商店が3軒あって、米や穀物・呉服・荒物・雑貨を販売しているほか、地元農家や小規模な漁業者たちに仕込み(融資)をしている。商品はすべて函館方面から取り寄せている。
生計
和人たちのうち、商業者や漁業者たちはおおむねそれ相応の生活を送っている。農民たちは大半が小作者で、まだ裕福ではない。アイヌたちは農業・漁業を兼業しているが、どの世帯も資産は乏しい。
教育
下下方村尋常小学校の分校が、1897(明治30)年9月に「捫別尋常小学校」に名称を変更した。この小学校は、捫別・有良・婦蟹・佐妻(さめ)・春立(はるたち)・遠別(とうべつ)・音江(おとえ)の各村組合が運営している。現在の生徒数は31人で、このうちアイヌは2人である。佐妻村・音江村からの通学生はいない。
神社
「村社」の金比羅神社がある。1868(明治1)年、(当時、場所請負人だった)佐野伝左衛門氏が建立した。
1899年の婦蟹村 ふかにむら
地理
南側は捫別村(もんべつむら)、西側は有良村(うらむら)、北側は佐妻村(さめむら)と、それぞれ隣り合っている。捫別川の左右両岸を擁し、川沿いはフラット、左右(東西)は丘陵地形である。地図上では捫別村まで1里(3.9km)、下下方村まで3里(11.8km)の距離だが、捫別川がくねくね曲がって流れているため、道路があちこちで川にぶつかっていて、大雨が降ると洪水になって通行止めになる。
沿革
昔からアイヌの集落があった。明治16(1883)年、稲田(邦植)氏家臣の町田氏という人が捫別村から移住してきて草葺きの小屋を建て、農業を始めた。1887(明治20)年以降、この地域の土地の「貸し付け」を希望する願書が提出され、移住してくる人が少しずつ出てきた。
戸口
1897(明治30)年末現在の人口は、38世帯、160人である。このうち35世帯をアイヌが占めている。このほか、無届けのまま約10世帯の和人が住んでいる。和人はほとんどが兵庫県出身者。捫別川沿いの「原野」に離ればなれに暮らしている。
農業
紋別川沿いの土地はやや肥えているが、山裾まで離れると湿原が多くなり、ほとんどの土地が火山灰に覆われている。アイヌの土地を除いて、ほとんどの土地が捫別村の商人たちが所有する貸付地になっている。そのため2世帯が自作している以外は、すべて小作者である。1世帯あたりの作付面積は1町歩(1.0ha)あまり~12町歩(11.9ha)。アイヌたちは最近、農耕に励んでいて、6~7世帯がそれぞれ1町歩(1.0ha)~7町歩(6.9ha)で作付けしている。主な農産物は大豆と小豆。また食料としてムギ・キビ・トウモロコシ・バレイショ・ヒエなどを作っている。小作料は50銭~1円50銭/反(9.9a)。新たに開墾する場合、3~5年の鍬下(返済期限)だけを設定するという。
婦蟹村と佐妻村に、アイヌの「共有貸付地」があり、面積は合計9万坪(29.8ha)。このうち婦蟹村に属する土地は湿原地帯だったため、率先して開墾しようという人がいなかったが、■■近氏というアイヌが300円以上の私財を投じて和人労働者を雇用し、排水溝を整備した。これまでに14町歩(13.9ha)を開墾し終えた。賞賛すべき取り組みである。
牧畜
梯良平氏の牧場(10万坪=33.1ha)には52頭の馬が放牧されている。武岡清吉氏の牧場(10万坪=33.1ha)には49頭の馬が放牧されている。最近は馬を飼育する土地が足りず、アイヌには馬を売却する人も多いが、半分以上の世帯が馬を所有していて、アイヌの■■近氏は20頭以上を飼育している。
風俗・人情
和人たちもアイヌたちも、粗末な茅葺きの家に暮らしている。婦蟹村のアイヌたちは、染退川(しべちゃりがわ)流域や遠別(とうべつ)村に住んでいるアイヌたちに比べれば、人をだまそうという気持ちの人はいない。和人男性と生活を共にしているアイヌ女性が10人ほどいる、という。■■近氏は品行方正で、義理をわきまえていて、アイヌのなかで得がたい人物である。
生計
和人たちは農業を生業にしているが、小作者が多く、暮らしは豊かとは言えない。アイヌたちは、農業のかたわら、空いている時間に昆布採取や、漁業労働の雇われ仕事、また冬期間はタラ釣り漁に従事する人が多い。■■近氏は少しばかりの財産を持っている。そのほかのアイヌたちは貧困である。
1899年の佐妻村 さめむら
地理
西側は、ウトゥロキナイ川を境にして婦蟹村(ふかにむら)と隣り合っている。西方は碧蘂村(るべしべむら)に面し、北部は山岳がそびえている。捫別川(もんべつがわ)の上流域にあたる。捫別村(もんべつむら)からの距離は2里(7.9km)。道路は劣悪である。
沿革
1893(明治26)年までは住民のほぼ全員がアイヌたちで、和人は一人だけだった。1894(明治27)年、捫別村・婦蟹村・佐妻村の3村が、共有の基本財産として、ここ佐妻村で土地貸し付けを出願した。その土地を開墾させるべく、淡路国出身の原氏ほか3世帯を移住させ、その後も数世帯が移住してきた。
戸口
1897(明治30)年末の人口は、アイヌ19世帯、86人である。このほか、和人の「寄留人」が約10世帯ある。何カ所かに分かれて住んでいる。
農業
佐妻村に設定された捫別村・婦蟹村・佐妻村の共有貸し付け地で和人3世帯、本庄氏の所有する貸し付け地で和人数世帯が、それぞれ4~5町歩(4.0~5.0ha)ずつの面積で耕作している。アイヌたちは大小の給与地を持ち、耕作している。このうち2世帯は、それぞれ2~3町歩(2.0~3.0ha)を耕作している。村全体で64頭の馬がいる。最多の19頭を所有しているのは原義三郎氏である。馬はふだんは山林に放牧しておき、必要に応じて耕耘や荷運びに使われている。
風俗・人情、生計
和人たちは全員が小作者で、「この場所に骨を埋めよう」という意志は乏しいようだ。アイヌたちは、春から夏にかけて農業の仕事、あるいは漁場で出稼ぎをして、冬場はタラ釣り漁に従事している。ほとんどの人が小さな茅葺きの家で寝起きしているが、ただ一人、神谷敬一氏という人がちょっとした財産を持っている。
1899年の春立村 はるたちむら
地理
東側は、布辻川(ぶしがわ)を挟んで三石郡(みついしぐん)に接している。北側は丘陵地形、南側は海に面している。布辻川は三石郡の山脈に源流を持ち、静内郡との境界線上を南の方角に流れ下って海に注いでいる。春立村は大部分が丘陵地形で、フラットな土地はほとんどなく、布辻川のそばにわずかに畑が作られているだけである。ハルタウシュナイという名前の小さな川が流れていて、アイヌ語の意味は「食べ物がたくさんある川」。春立村の名前もこれに由来する。捫別村(もんべつむら)からの距離は1里24町(6.6km)、三石郡姨布村(おばふむら)まで1里4町(4.4km)。海沿いに道路が通っているが、馬車・荷車の通行は困難である。
沿革
開拓使の管理下に入るまで、(姨布村と捫別村にそれぞれ置かれていた?)「会所」に勤務する人たち4世帯が住んでいたが、それ以降、移住してくる和人は多くはなかった。農業可能な土地がないからである。
戸口
1897(明治30)年末現在の人口は10世帯、55人である。このうちアイヌは3世帯、10人。全員が海辺で暮らしている。
漁業
昔から漁業が盛ん。静内郡の中でも有望な漁場である。1897(明治30)年の概況は次のとおり。
イワシ曳き網 | 2カ統 |
イワシ建て網 | 3カ統 |
サケ建て網 | 3カ統 |
マス建て網 | 3カ統 |
タラ漁川崎船 | 6艘 |
タラ漁持符(もちっぷ) | 8艘 |
カレイ漁川崎船 | 8艘 |
カレイ漁持符 | 10艘 |
昆布漁船 | 106艘 |
タラ・カレイ漁業は、名義上は村民の経営とされているが、実質はほとんどが越後国(新潟県)出身者たちの「入り稼ぎ」である。彼らはまずタラ釣り漁に着手し、続いてカレイ手繰り網漁にも乗り出している。かつては、村民漁業権利者が労働者の食費など費用全部を負担するかわり、入り稼ぎ人たちは船と労働者を提供して、水揚げ利益を60:40の割合で分け合う、というやりかたをしていた。しかし現在は、村民漁業権利者は(入り稼ぎ者に)海産干場をレンタル、また仕込み(融資)だけをして、入り稼ぎ者から水揚げ利益の5%を徴収するだけになっている。
かつて2年間のイカ釣り試験操業が行なわれたが、成績が上がらず、中止になったという。
農業
専業農家はいない。自家消費向けの野菜を作っているだけである。
牧畜
村全体で62頭の馬が飼養されている。村の共有牧場があり、1頭につき月額15銭の「入場料」収入を牧柵整備費などにあてている。
1899年の音江村 おとえむら
地理
布辻川(ぶしがわ)の西岸に位置している。春立村(はるたちむら)から見ると北側、遠別村(とうべつむら)から見ると南側にある村なのだが、境界線がはっきりしていない。「音江」の元の名前はアイヌ語の「オトイウシ」で、「川尻(河口)が破裂するところ」という意味である。
概況
1897(明治30)年末現在、音江村に本籍を置くアイヌは4世帯、13人となっているのだが、10数年前に遠別村に移住していて、現在は1軒の茅葺き小屋も残っていない。
1899年の遠別村 とうべつむら
地理
西側は布辻川(ぶしがわ)を境に三石郡(みついしぐん)に隣接している。南側は音江村(おとえむら)につながり、北部は山岳地形である。布辻川上流西岸に位置している。布辻川に沿って細長い形の平地が約1里(3.9km)にわたって続く。耕作するのに非常に適した土壌。村の名前はアイヌ語の「トイペツ」から。「食土川」の意味である。
運輸・交通
春立村(はるたちむら)からの距離は2里(7.9km)、また三石郡姨布(おばふ)駅まで2里(7.9km)あまり。布辻川の西岸に沿って道路が一本、通っている。
沿革
昔からアイヌたちの集落があった。1878(明治11)年、原條新次郎という人が農業・牧畜の目的でこの村に住み始めて小作者3世帯を引き入れ、1893(明治26)年、さらに小作者15世帯を自分の農場に移り住ませた。それ以来、〈開拓の業〉が進んでいる。
戸口
1897(明治30)年末の村内人口は50世帯、348人。このうちアイヌは36世帯である。この他に、未登録の和人たち数世帯が住んでいるようだ。移入者には但馬国(兵庫県)、淡路国(兵庫県)、安芸国(広島県)出身者が多く、布辻川西岸に離ればなれに住んでいる。
農業
地主が少なく、小作者が多い。うちわけは、原條氏の小作者が11世帯、荒木氏の小作者が5世帯など。全世帯が馬耕を採用し、数町歩ずつを耕作している。仕込み(融資)は地主が引きうけ、小作料は小豆1斗2升(21.6リットル)~2斗(36.1リットル)/反(9.9a)である。反収は、布辻川沿いの肥沃な土地では平均して大豆1石5斗(270.6リットル)、山裾の「劣等地」で6斗(108.2リットル)ほどだという。3町歩(3.0ha)の水田が作られていて、それなりの収量を上げている。アイヌたちは、農業に熱心な人は少なく、大部分の人は3~4反歩(29.8~39.7a)で作付をしているに過ぎない。というのも、海岸で漁業労働者になったほうがたくさんの収入を得られるためで、(行政がアイヌたちに)農業を奨励しても効果は上がっていない。
牧畜
布辻川を上り詰めたその先の山間に、原條牧場がある。オーナーの原條新次郎氏は1887(明治20)年に南部牛14頭、また1888(明治21)年に新冠(御料牧場?)の生産馬48頭を購入した。さらに北海道庁から種牡馬・種牡牛をレンタルして、品種改良に取り組んだが、新次郎氏没後は牧場はやや衰退に向かっているようだ。現在は短角雑種牛およそ80頭、馬およそ30頭が飼育されている。1897(明治30)年の売却実績は牛30頭、牡馬14頭だったという。このほか、村全体では計107頭の馬が飼養されている。アイヌで馬を所有している人は少ない。
風俗・人情
安芸国(広島県)出身者はよく仕事に励む。但馬国(兵庫県)出身者は少しばかり怠けがちな印象がある。アイヌは全員が依然として粗末な茅葺き小屋に住んでいて、〈懶惰狡獪〉である。捫別村のアイヌたちと比べると、たいへん劣っている。
生計
和人たちは農業を生業としている。まだ余裕はないが、貧困者はいない。アイヌはおもに「漁場稼ぎ」をして、そのかたわらで農業ヲしている。おおかたの人が困窮している。